「立石。夏音になにかあった?」
村岡珠理がそう言ってくる。教室を出た先のことだった。
教室を覘くと確かに槇村はいない。
「何かって、何もないだろう」
そう答えると珠理はこの頃あまり話をしなくなったんだと言い、昼休みでも誰かと携帯で話をしていたり、ふらっとどこかへ出かけることもあるらしく、中途半端に帰ってくることもあれば早退することもあるという。そうなると槇村の荷物を珠理が家に持って帰ったりしていたという。確かに見かけない日もあった。槇村はわが道を行くような性格だ。詮索するには気が引けた。それにこの頃話しかけられることはなくなっていた。さりげなく伺うと思いつめた顔をしている時もある。時にはじっと隼世をみている。
何かあったようでもあるが、隼世は自分から確かめようもない。
「何があったに違いないよ…心配しないの」
そんなこともわからないのとでもいうように前のめりに隼世を見る。そして珠理に対してわだかまっていた疑問が唐突に頭に浮かんでひょいと言葉に化けていた。
「あのさ。珠理と夏音ってどういう関係?」
そうそれが聞きたかった。
「何それ」思いもかけない顔で隼世を見返してくる。
二人のこれまでの態度や掛け合いが浮かんでは去っていく。
「友だち関係なんだろうけど、それだけじゃない深いものとして感じる」
正直に隼世が話すと珠理はくくっと笑い出した。その笑い顔に隠された妖しい光を隼世は見逃さなかった。
「山崎も気づかないことに良く気づくわね。詮索癖、それとも洞察、親しい友人以外に何かあるというの?あるとすれば立石は夏音が好きなのかなぁ」
思いがけない質問が逆に返って来て隼世の胸をえぐった。
「どういうこと。分からないなあ」声が上ずった。
「分からないの。自分に尋ねてみれば」
心臓の音が高く。熱を伴って奥底をチクリと棘が刺した。
「好きという気持ちはあるのかも知れない。でも世間一般の好きじゃあない気がする」素直に答えたつもりだった。
「立石ってさ、人間嫌いでしょ。だからそんな風に言うんだよ。人を好きになったことってこれまでなかったの」
珠理の問いは思い出したくもない記憶を呼び覚ました。
「小学生のころそうした気持ちが湧いたことがあった。同級生の女の子を好きになった」
どうしてこんなことを話し出したのか、隼世は自分自身に驚いた。相手が槇村だったら話せなかっただろう。話すことで槇村との関係を自分も知りたいという思いと、夏音への気持ちが好きなのかどうか確かめたい本音も隠れていた。珠理ならどう思うだろう。
「その女の子とは?」珠理はストレートに訊いてくる。
「考えたんだ。好きになるとはどういうことだろうと。その頃は父のDVが酷くなっていて、いつも傷や痣を作っていた。彼女は優しかった。傷クスリを塗ったり手当をしてくれた。僕が彼女を好きになったのはDVから逃れたかったからか、優しくされることを求めていたからじゃないかって。自分を振り返った」
好きという感情を知りたいから遠くから観察した。
まず彼女は可愛らしかった。じゃあ奇麗な美術や絵、芸術にもこんな感情がわくのだろうかと考えた。それともあの彫刻とも違うすべすべして温かい肌に愛着を持ったのかと考えた。でもそれならば自分だって同じだ。肌だって似通っている。風呂で傷ついた肌をさすったり舐めたりした。自分の肌をさらに愛しく感じたよ。他人じゃなくで自分であることに。
でもDVでの血の味やただれた皮膚の感触は忘れられない。それからだ。血や皮膚、DVが始まる時の吐き捨てる言葉や酒臭い息遣い。それらがぼくの脳を吹き飛ばしたんだ。嫌悪感でいっぱいになった。それからだ人間嫌いになったのは。
隼世は語りながら自分が何故石を好きになったのか、その根底に根深い人間嫌いがあるのだと思い知った。
珠理はというと、少し困った顔をしてどう言葉を発していいか分からない顔色を浮かべていた。
思えばこれはトラウマというやつだろうか。
「立石ってこれまで誰かに相談するとか、今みたいに自分から話したことはあるの」
「DVのことなら槇村にも流れで話したことがある」
「いや、その前だよ」
「ないよ。誰にも話せなかった。母が困ると思ってね。もう謝って欲しくなかった」
「そうかぁ。大変だったね。けどね、たぶん夏音もその女の子と同じなんだよ」
「同じって、あの少女と」
「そう。立石の傷を癒してくれる人。慰めてくれる人。でもね立石。そんな理由で夏音を好きにならないで」
隼世は何事かをいいかけて止めた。何となくそんな気はしていたがどう返事すればいいか分からなかった。それでも自分の心から解放されたようでなんだか気が楽になった。晴れぬことはいっぱいあったが。
「場所移動しよう」
隼世の袖を引いて村岡は校庭の桜の樹木の中にあるタイヤの腰掛に腰を下ろした。背後には一本銀杏の木が立っている。秋にはその黄葉に染まる一面の葉が見事に奇麗だということを隼世はまだ知らない。
私はね、と珠理は語った。
「私は自分が変だと思ってた。暗黙の了解みたいなのがあって、女の子の中でも、男の子の中でもなんか違うって。ひと言で生きづらさって言えるのかもしれないけど、私って何かが違うんだって思ってきた。でも…でもね立石。夏音が転校してきたとき、私は自分自身に知らされたの。初めて私は恋をした。夏音に。その衝撃は忘れない。初めは何が起きたか分からなかった。でも好きであることは変わらない。夏音のすべてが許せたん。同性とか異性とか関係ない。きっとあれは恋。私は夏音に恋したんだと思う。それが偽ざる私の気持ち。立石こんな気持ちどう思う?」
「村岡さんはその…あの…」
隼世の返事はしどろもどろになった。
「それから色んな事を調べ回った。クィア。性的少数者っていうか、トランスジェンダー。変なことでないでしょ。立石なら分かってくれると思う。違う?」
クィアのことは知らなかったが村岡さんはやっと誰かに言えたことにどこか吹っ切れたような顔をしていた。これまで見たことがない自然体の、やはり女性にしか見えなかったが、どこかボーイッシュで素敵な女性。いや素敵な人に見えた。そしてまた色んな感情が隼世の中に渦巻き始めた。
「これまで夏音を見てきた私が言うんだから間違いない。夏音は今何かを抱えている。隼世。シナリオのことにでもかこつけて訊いてみてくれない」
それだけ言うと、今日も昼から早退。槇村家に荷物届けなくてはね、とこぼした。
「じゃあ、僕も行っていい」
驚く村岡の先で隼世はポツリと決意をもらしてみた。そして自分を振り返る。
もう石じゃあなくて砂だ。川の流れに踊らされ、人の思いに堆積していく砂。
一体どこへ向かっているのだろうと考えつつ珠理に追いついて一緒に歩き出した。妙な気分だった。
珠理が同性でありながらこうもあっさりと夏音を好きだと自分に宣誓し、そして自分から解放されていくのがうらやましいとさえ思えた。
どんな言葉が、いやどんな告白が自分を解放するのだろう。
解放するにふさわしい晴天が、雲一つなく頭上にあった。
…つづく