アーロン・ベクスターの会話をフェリはデッサンになぞらえる。

「アーロンの頭の中にはできあがった映像がある。例えるなら自画像だ。言葉のひとつひとつ、文章や会話というのはデッサンの線にしか当たらない。どれほどの言葉を重ねれば自画像を描けるだろうか。アーロンの会話も言語もパーツなのさ。アーロンの声はふるえている。アーロンの声でぼくは映像を見る」

アーロンは吃音でも、下っ足らずでもない。

僕からしてみれば圧倒的に言葉が足りないのだ。

食堂から出た僕をアーロン待っていた。

「ざ…懺悔だ。マルク…き、気をつけろ。霊気の水槽…マルクの母さんは本当にいるの?ね、ねぇ…フェリは知っているよ。

ヒナの親はだれ?……記憶の親はだれ?……マルクの親は?だれ?だれ?

フェリはここで生まれた。フェリはだれ?ぼくはだれ?……みんな変わっていくよ!マルクも変わるの?マルクはだれになる。ルクリアになるの?」

ルクリア?……

「アーロン。何をしている!」

そうったのは調整官のデイヴィッド・ストーンだ。僕らはもっぱら『死仮面』と呼んでいる。つねに無表情でちぢれた髪は古代の巻貝の化石に見える。沈んだ肌の色は粘土細工の泥人形のようだが、誰もそんなことを言う奴はいない。『死仮面』は確かに静かだが、彼は冷静に冷酷なことを顔色一つ変えることなく行う。

『死仮面』はときには裁定者となる。アーロンは声を聴いた途端に廊下を一目散に駆けだしていった。その背中を見つめながら、呼び止めもせずに、『死仮面』は僕の方へ近づいて来てガラス細工のような目で言った。

「マルクお前は四番懺悔室だ。急げ!」

懺悔室は五番まである。全部をクリアすると卒業と言われているが、どうも怪しい。噂では懺悔室の五番に入った者は確かに卒業するらしいが、卒業していく姿ばかりか、五番から出てくる姿も見た者はいない。一度入った者は部屋で消えてしまう。書き換えられたかな、と言ったのはフェリだ。

背中に突き刺さる『死仮面』の視線を感じながら、僕は廊下を急いだ。

途中、「マルクの昇天が近づいた!」やら「最後の部屋!」やら、冷やかしならまだいいが、侮蔑を込めた声色が渦巻いてい

「お前ら。いい迷惑だぜ!」と捨て台詞を吐いた者もいる。僕は真っ直ぐにそいつらをにらめつけた。奴らが言ってるお前らとは僕とフェリのことだ。ミゼルもそうかもしれない。だとしたら言った者をのしてやる。

フェリはフェリだ。お前らではない。妹が身体の中から飛び出してきて、すぐにでも飛びかかっていこうとしたが、二人に腕を掴まれそのまま廊下を進んだ。その二人とはもちろん僕の中の自分の分身で名前はない。

ところで名前って何だろう?

フェリは時に「ぼくはフェリじゃない」という。

同じ人でも時によりけりで態度も言葉も異なる。フェリに訊ねると「反作用」とだけ答えた。入って来る波長の長さと入角度が異なるから違うというけど、実際、フェリが何を指しているのか僕にはわからない。

今頃フェリは山を越えただろうか?まだ山の途中だろうか?

懺悔室が近づいてきた。第一には誰かいるらしい。声がする。マントラだかなんだか知らないがバイブルを読まされる。一人一人与えられる箇所は違うようだが、部屋から聴こえる言葉には覚えがある。伝道の書だ。

第二の部屋では運動と停止を、一瞬の光と闇のエクササイズを繰り返す。部屋は進むごとに扉も壁も厚くなる。音は、聴こえなかった。

第三の部屋は死の壁と呼ばれる狭い部屋で、チベット方式の死の瞑想を過ごす。誰もが精神を病む部屋として知られているが、僕が病むことはなかった。

「お前は何番目のマルクだ!」それからというものそうなじられるようになっていった。しかし、その時からだ。僕がフェリと親しくなったのは。

目の前にある壁が胸を圧迫してくる。呼吸が封じられていく感覚。四方の壁が闇と同化していく中で、その分厚い壁が一瞬透けていく感覚がした。

そして何か聴こえる。これは、声だ。声が聴こえる。声は闇の向こうから吹き寄せる。まるでそこに誰かがいる。それもとても近くて、話の息がそっと吹きかかるような、そんな…「誰?」そっと声をかけてみた。「マルク。マルクでしょ」声はいう。「きみは?」と訊き返す。「きみのことは知っている。きみの焦点はぼくと同じ。ぼくの名はフェリクス・ガーデリアミゼル・タリーナマルク・チャステインがぼくの声を聴く…」

それから何といろんな話をしたことだろう。

思えばその時からだ。分裂の枝先がさらに分かれたのは。それとも気づいたのは。それはまるで春を待つ枝先、枯れがかった枝先に血が通って、目覚めた枝先の妹がフェリを意識するようになったのは。たぶんその時の壁越しの会話からだ

第四の部屋は真四角なキューブ状の部屋で、中央に一本足の丸い椅子が一つある。何よりも驚いたのは、床から天井から、部屋一面の壁に、十センチから三十センチ程の三種類の音響板が規則正しくびっしりと並んでいることだ。扉にしても一層に厚い。壁もそうなのだろう。監視人のディックに促され部屋に入ったが、得体のしれない恐怖が何度も背筋を駆けあがって来

部屋が微かに振動しているのだ。振動は今始まったのか、以前から始まっていたのか。それは分からない。振動は部屋の空気を震わし、熱も無いのに皮膚が騒ぐ。髪の毛は立ち上がり宙を泳ぎはじめている。ゆらゆらと。まだ穏やかだが、そう、まるで水中にでもいるように。

静電気の力?天井を見上げる。

一点から黒い闇が滲みだす。水のようだ。ぽつりと落ちた…と、声が聴こえた。

「マルク、聴こえる。マルク。成長が早まるときみはバラバラになる」

「フェリ。フェリなの?どういうこと?…」

ルクリアを呼び起こせ!」

「説明して!」

「この部屋は利用できる。天から一弦が下りていることを思え。創造は音の力で成り立った。MUAだ。ルクリア!M・U・Aだ」

「フェリ待って!МUAって…

すぐに分かった。音の共鳴だ。天井を突き抜けた空から一筋の弦が下りてきた。

MUuuuu…n.弦が震え出す。弦の一音が辺りの音響板と共鳴して、僕の喉と共鳴する。すると内と外から音が寄せてきた。MとUが満ちて来た。僕のAが発せられると満水なった。

やはり水。音の水きっと蛇口を開いてフェリが水槽に水を放ったのだ。一瞬、くらくらと眩暈がした。何度もした。ふわっと、身体が浮いた。

魚座のルクリア!きみの

フェリを近くに感じる。

すると、満ちた水槽の深層から魚が近づいてきて口をパクパクした。

「私の水。宇宙の水。ここ出よう

ごぼごぼと水中の気泡が渦を巻き、Aの高音が上昇する。ぐるぐると体をつくる。

Aaaaaaaaaaaa

音の塊りがダツ魚となって一直線に鍵穴へと向かう。無形の水圧の形が鍵になったのだろう。ガチャリと扉が開いた。

行こう…」

ルクリアが手を伸ばす。僕がその手を取る。手と手から水が弾き出た。ディックに押し寄せた。その姿がはっきりと見え。喉を両手で押さえるディックの横をすり抜け、ルクリアは泳いだ。僕は泳いだ。泳いで出口へと急いだ。

マルクだ。マルクだ。」「出て来たのか。フェリもいるのか……

ホールを走り抜け、サンザシの垣根を飛び越えて門を開くと、シャルバンティエの外へ出た。半月がぼんやりと浮かんでいる夜へと僕は出た。

「マルクが逃走しました!」

死仮面デイヴィッド・ストーンが血相を変えて所長室に飛び込んで来た

逃げました!フェリを追ったのでしょうか?追跡隊を差し向けますか?」

「心配はない。三人を一度切り離す必要があった。バラバラにした後また一つにする。そのうえで確保する。まだ彼らは手の内にある

所長はPCの画面を見ている。第四懺悔室の映像だ。

「しかし、何処へ逃げたか。今なら追いつけます」

「マルクが連絡してくる」

「は…マルクが…」

「マルクが眠りに就くと幼いルークが目覚める。ルークはマザーに逐一連絡してくる。ここシャルバンティエにだ。夢遊病と似ているようだが、そうではない。幼いルークはマルクの別人格で、ここの子供だ

「そんなことが」

「この世界は不思議だ。現実には見えないものが背後隠れている。フェリはそれを見ている

所長はマルクが懺悔室を出ていく映像を繰り返し見ていた。

 

そのころ、銀色の葉が誘う道にマルクはいた。ニールベンの頂を見つめながら、何度も何度もフェリクスと交信しようと試みていた。

 

 

 

  …つづく