あのひとときは何だったのだろうと夏音は思った。
途中から隼世がひとりになりたがってるような気がしたのは事実。
話を止めてみた。案の定隼世は口を紡ぎ、それでいて自分のペースを作り、立ち止まり、空へ川へ橋へと意識を飛ばしているようにみえる。
そればかりではない。少しづつ少しづつ大きくなっているようにみえる。体ではない。存在がである。光が走って行ったと言ったが、走って行った光が外界の光を集めて戻ってきたのではないだろうか。そんな風にも思えた。
この人は呼吸すると同時に自然を取り込んでいるのではないだろうか。
まるで腹を空かせているときの食事みたいに。
それが答えかもと言うとそれが答えだよと言ってきた。その意味は何?
「槇村。この頃体調はどうなの?」
「名前で(呼んで)。心配はいらない。調子はいいもの」
「あのさ。人間には三つの食べ物があるって知ってた」
「食べ物は食べ物でしょう。栄養価とかそういうの」
「違うよ。口で食べるものは栄養学や食事療法を知ってる人にはかなわないけど、そうした食事の上に呼吸という食事がある。これも腹式呼吸とか瞑想をしている人は食事の仕方みたいに呼吸の仕方を考えている。そのさらに上にあるのが印象という食べ物。音楽や美術鑑賞などしていると心が豊かになってくる。印象は人間の心の体を育むんだ。ナツネも心が疲れたり病んだりしたときは良い印象を食べるといいよ。それは心の栄養価になるからね」
「そんなこと考えたこともなかった。確かにあるねそういうこと。言葉にするととても良く分かる。本にでも出てた」
「白い石に教えてもらった」
隼世はそう答えると再びゆっくりと歩き出した。
時折り私の方をちらちら覗いているが、どうやら顔色を伺っているようだ。
あんまり気にしないでよ。
病的白さというのか、もともと白いのにこの頃はさらに白くなっている。
私も気にはなっていたんだ。これも人の持つ印象だよね。
あっそうか、化粧も印象なんだ。自分が食する自分の印象。人が勝手に食する私の印象。隼世に私はどんな印象を持たれているのかしら。
そんなことを考えながら橋のところで別れた。
出会いと別れのしずく橋だ。
橋もまた生きていて私に用意してくれたんだ。そう思えた。
他にも用意してくれていることがあるのかな。
そんなことを考えると橋が隼世を招いてくれたと思えて胸が温かくなった。
いよいよ梅雨の季節に入り雨の日が続くようになった。
隼世は槇村が持ち込んだ『半神』の意味を村岡珠理から聞かされた。
演劇部には毎年秋に行われる発表会に出る。
夏休みに行われる合宿前には一年、二年、三年それぞれで演目問わず、人数問わずの短い劇を発表する。特に一年は今できる力を十二分に出し切って演じる。
秋の発表会の配役メンバーはその上で決まるということである。
『半神』はいわばその予選のようなもの、一年の演目として槇村が推薦してきたのだった。しかし、これほどプッシュしてくるのは、自分が出るつもりなのだろうか。それ以外の理由があるのだろうか。
あのさ立石、と村岡が話し掛けてきた。
「この頃夏音の調子をどう感じる。ときどき会っているみたいだからさあ」
「体調のこと」
「無理してないかなと思って」
「無理させられているのはこっち」
「ふふ、何かわかる。中学から一緒だけど、出会った頃は立石みたいだった」
「へ~え。そうなんだ」
「いつも化石になるんだっていってた。化石になるには人生よりもっと長い時間ともっと自分に近づかなくてはいけないって。独りでいるのが好きだった。似てるでしょ。立石と「
「槇村家のことは聞いた」
「養子のこととか…」
「そう。いい人たちなんだけど、その分気を使っているみたいなのよね。引っ込み思案というか、私も親しくなるのに半年ぐらいかかったよ。それが立石とはすぐに親しくなった。不思議ね」
槇村は昼休み姿を見せなかった。午後の授業にも姿を現わさない。早退を知ったのは授業が終わる頃だった。
「どうしたんだろう。やっぱり体調がすぐれないのかな」
珠理はそうつぶやいた。
今日はシナリオのこともあり、隼世が演劇部に三回ぶりに出ようとしていたときのことである。
昨日の夜のことである。
夏音は『半神』を何度も読みながら眠れない夜を過ごしていた。すると階下からだろうかぼそぼそと話し声がする。いつもは就寝が早い育ての親が起きている。それに話をしている様子である。母のすすり泣く声まで聞こえてきた。
ただならない奇妙な感覚に誘われるように夏音は部屋を出た。
そっと、そっと、音を立てずに…私のことを話しているのかな。薄暗い廊下を進むと明かりが階下から上っていて足元が見えるようになった。吹き抜けのリビングが夏音に幸いした。階段のところまで半腰で進むとその場に座った。
聞き耳を立てていると、ナツネに話さなくていいの、という義母の声が聞こえrてくる。
「どうだろうな。昔を思い出させるなんて俺にはできないが…」
「そんな訳には…」
「亡くなったということでこれまで過ごして来たんだぞ。だからまず俺たちに連絡してきたんじゃないか」
「それは分かってる。でもね。人って情があるじゃない」
「情があるからさ。考えてもみろ。亡くなったといってきてそれが噓だったら、ナツネは私たちをどう思う。信じられるか。隠すような何かがあったのだと余計な詮索をするかもしれない。それだけじゃない。仁美さんからもお願いされたじゃないか。その気持ちを無駄にすることはできない」
ヒトミ…母の名だ。亡くなったはずなのに。施設の荒木さんもそう言ってたはず。
「あなたの言うことは正しい。でもそうなれば私たちは二度も嘘をつくことになるのよ」
「話したら母親の元へ行くかもしれない。それでいいのか」
「行くとは限らないわ」
「そんな選択をナツネにさせたくはない」
母が生きている。亡くなったというのは嘘だったの。立ち上がろうとした自分を押しとどめ夏音は歯を噛みしめた。
遠くなった幼い頃の記憶が蘇ってくる。『半神』の最後のシーンもまた。
思い出す母の面影は笑顔だ。苦しい表情もたくさん見ていたはずなのに、浮かんでくるのは危うげな儚い笑顔。そしてまなざし。
母はいつも詫びるように謝っていた。悪いところなど何もないのに。社会の影を歩いてきた母だった。自分の体のせいで、病気のせいで。
私は役立たず、が母の口癖だった。
あっそうか。ふと気づいた。
隼世はどことなく母と似ているんだ。
…つづく