その日、僕とフェリは施設を飛び出しグレイマンズ公園へ向かっていた。季節は落ち葉の秋で、街路樹も、遠くに見える山々も、それは鮮やかに色づいて、非現実的な絵画の中の出来事にも見えたし、そんな気分にもなっていた。
そしてふと気づいたのだが、僕は呼吸を忘れることがある。もちろん本当に忘れて止まってしまったら死んでしまう。だから止まってはいないのだろうが、静かに、細く、ゆっくりと長く、消え去るような呼吸が僕の手を離れて、周りの空気の動きと一緒になっていくのを感じるときがある。
フェリも知っているようだ。
カサカサと歩道に落ちた枯葉が風に転がり、足下に踏みしめる音と共に、散りゆく秋の音が辺り中に反響していた。まるで雨のように葉が散る音が。
「聴こえてる?ぼくときみは一緒だよ。マルク。
音も言葉も奏でるのは皮膚膜にある。
外の世界の音と、自分自身の内側にある音が衝突し、打ち消し合ったり、増幅したり、ぼくの中の血液や内臓、それに細胞も音を立てているから、不快な音も、心地よい音も生まれる。太陽だって月だって昇る。ぼくの中には一日がある。四季がある。それを壊す破壊的な音がある。とつぜん鳴り響く物音、車や飛行機や工事の掘削機の音、様々な機械音、神経を逆なでする電子音。それに人間の声、意味を持つ言葉。本来そこにある音と、言葉の意味の音にはいつも違いがある。そんな声は無秩序な音だ。そうした音がからだをつくる。
だからぼくは用心しなければならない。マルクだってそうだ。
ぼくはミミズの合唱だって上手に弾ける。風に鳴る葉の合唱も弾ける。でもそれだけだ」
そうそう。世界は音を立てているんだよね。
突然丸くの中の兄弟がアイズチを打った。
それって、目的がある音だけれども、目的通りの音じゃない。意味を持ってはいるけど、意味通りの音でもない。じゃあその違いは?
兄弟はとてもうるさい。
「ねぇフェリ、意味とはどんな価値を持ってるの?」
「意味…」
「そう。意味だよ」
「真実の音に近づくこと、かな…」
「じゃあ言葉は?」
「真実を響かせるもの、かな…。それが響いたときに力を発揮する。そうじゃなかったら水を含まないスポンジだよ。スポンジが含んだ水の量は人それぞれだけど、水がなくたってスポンジはそこにある。それが事実だよ」
なぜだか頭の中で骸骨が着ぐるみを着て踊っていた。骸骨は人間だったり、言葉だったり、意味だったり。とにかくこの世界は着ぐるみでいっぱいだ。
クスッ、と兄弟が笑う。
「マルク!君の音が聴こえたよ」
フェリはシューズを上手く立てて音を出した。タップのつもりなのだろうか。
石の上。マンホールの上。歩道の上で、地面を、鉄板を、落ち葉を踏んだ。
芝の上。縁石の上。水たまりの上で、ジャンプした。
思えばこんなに自由に飛び回ることなんてあっただろうか。それらは心の中の経験に過ぎない。フェリを真似ると世界から反響が返ってくる。柔らかな音、いや、声だ。これは言葉だ。会話するように辺り中から返ってくる。
…世界は生きている。
「ぼくらは意味の中にいる。外にいる。
時間の中にも外にもいる。
いつか建てられ壊される世界に、ぼくときみはいる。
地球の外で、地球の時間の始まりと終わりを見る。
ふるえる速度がつくった、ゆがんだ世界に生きている…」
僕とぼくとボクはフェリの背後に終わりの世界の太陽を見た。
西に傾きかけた太陽が、家々を、街路樹を、落ち葉を、ベンチを、車を、人々を、老人を、ベビーカーの赤ん坊を、花壇のパンジーを、つやつやとした毛並みのヨークシャテリアを、空と命の水たまりを焼き尽くした。
ベンチに腰を下ろした老人が顔を上げてフェリを見ている。
僕を見ている。
その視線さえもふるえる曲線になって大きくカーブを描き太陽を追っていった。
「悲しいね」フェリはベンチに立つとポツリともらした。
「悲しい?…きみは悲しいの?」
「みんながだよ。みんな悲しい存在なんだ」
ベンチから大きくジャンプすると、目をキラキラさせて僕を見た。
少年のような、少女のような、あれっ、フェリに性別なんてあったろうか。
「見つけたよ!」と彼は言った。
「ミゼルの声がした。ほら…あっち」フェリはニールベンの雪山を指さした。
「あの向こうにいる。まだミゼルはミゼルだ!ああ、よかった。マルクにも聴こえるだろう?」
フェリの華やいだ声が響く。するとキラキラとした光がそこかしこで跳ね、無数の光が生まれた。ダイヤモンドカットに照らされた世界の、輪郭が重なり合って、二重三重に透き通っていた。そして何かがひたひたと満ちてきた。
本当だ!本当だった…
スポンジのような世界が水を含み始めた。浮力に足が浮かぶ。身体が浮かぶ。
見下ろすとフェリが手を振っている。
「どう?分かっただろう!マルク。ぼくはミゼルのところへ行くよ。きみも来てくれるよね」
僕の隣にフェリが昇ってきた。彫像のようにピクリとも動かない身体で首だけが動いた。フェリはさらに手を振って「じゃあ行くね」とだけいった。
「ぼくはどこへ行けばいい?」そういうと「山の向こうだよ。声を届けるから」そういってフェリは歩き出した。
しばらくすると、車を乗り付けた施設の者が、ゆっくりと地上に降りてきた僕を摑まえに来た。二人が僕を抱えて回収車に運び込んだ。もう二人はそこら中を捜し回っている。フェリを捜しているようだったが、どこにも見つけることはできなかった。
僕の残った残像が空宙でその様子をずっと見ていた。
「声はきみと共にあるんだよ」
フェリの声に振り向くと、ニールベンの頂が輝くのが小窓から見えた気がした。
まず君自身を解放しなくちゃね…ニールベンからこだまが帰ってくる。
「さあ行くぞ」男たちによってマルクは左右の腕をがっしりと捕まえられた。
…「発現するルクリア」へつづく