村岡珠理がそうであるようにいつしか槇村夏音のことを、心の中でナツネと呼ぶようになっていた。しかし実際に呼んだことはない。なぜか心の中でそう呼んでみるとすごく身近に感じる。夏音に恋をしているのだと思った。
そんな夏音から手渡された『半神』を読んだ。
『半神』は十ある作品の中の一つだ。可愛さと醜さ、弱さとしたたかさ、羨望と蔑み、そして生と死、それらが逆転して自分に突きつけてくる感情はなんとも心に刺さる。
これは演劇としてもとても素晴らしいものなのではないだろうか。
夏音が惹かれた理由も分かる。
でももう一つの作品『スロー・ダウン』は自分の物語りのような気がした。
感覚遮断の実験で何もない部屋に入れられた少年の話だ。
何もない部屋で何もしないでいるとゆっくりと死んでゆく感じだ。というシーンがある。それは孤独に沈んだときの自分に似ていた。
現実は本当に色を失い、輪郭を失い、重さも味も失っていく。というよりも自分がいなくなっていく。そんな感じ。
強烈なのは何日かして実験も終り部屋を出られるようになった後だ。
刺激に小躍りしたのも束の間、友人や街や情報が自分にとってどれほど真実なのかわからなくなっていく。現実もまた何もないあの部屋とおんなじだと気づく。本当に現実とは何なのだろう。薄っぺらい「私」を通して捕まえることが出来た現実にいかほどの意味と価値があるのだろう。
本当は意味なんてないのではないか。なぜならそれに意味を与えたのは僕自身だから。部屋にいる時も部屋から出た時もそこにあるのは僕自身。世界の真実や確かなものなどはどこにもない。
現実は僕の幻想に違いない。石に憧れ続けたとき、父からの暴力や痛みが幻想であればどれほどよかったか。そしてそれ以後の現実はこれ以上なく幻想となっていったときのあの感覚。
少年が感じた現実衝動は部屋の中で食事を差し出した誰かの手だった。
その手に幻想を破る刹那を少年は見た。それを思い出しあれこそは現実、真実の手と思うようになる。その手を本当の意味での現実として追い求める。
そういえばそのような『手』が自分にも差し出されたと隼世は考える。
しずく橋での夏音である。夏音がかけてきた「四月の川はよしたほうがいいよ」という言葉である。
この不思議な出会いが現実の中の何かを見せたし、また何かを隠した。
石の声が昔と同じように聴こえなくなったのもそれからだ。
だとすれば夏音は機縁の人で運命の人ではないだろうか。
何を少年がと自分に卑屈になりながら、現実には、槇村には何が見えるのだろう、あるいは何が見えているのだろうと思った。
今、隼世と槇村は和古川の上流に向かって歩いている。
眩しいほどに白い制服にも槇村は負けてはいなかった。隼世は少し心配になる。病的なものを感じ取れる顔色に思えたからだ。
「こんな話を聞いたことがある。本で目にしたのかもしれない。アローン(alone)という単語があるけど、語源として読み解くとオール・ワン(all-one)から来ているらしい。同じような意味の単語ロンリー(lonely)には半分という意味が隠されているんだって」
「『半神』の話じゃないの」槇村が首を傾げて隼世を見る。
前置きで、似ているなと思ってさと隼世は答えた。
「確かギリシャ神話じゃなかったかな。男女がひとつの体だったっていう話。アンドロ-ギュノス。男-女。神を神とも思わない傲慢さがあったらしくて、それに怒った神が男と女に分けた。さて、するとどうでしょう。ひとつだったものが半分になって力も強さも失くなり半分以下になってしまった。そして欠けた半分同士が惹かれ合うようになって、自分のパートナーを探しで一生を終えるようになったそうだよ。でもそんな相手に会えるのかどうかは疑問だね。ある人によると脳の形は二人の胎児が抱き合っていると言うんだ。だからそうしたパートナーは自分の中に存在している…」
アハハハ。楽器のような笑い声が槇村からこぼれた。
「隼世は変なことを知ってるね。半分の自分でロンリーね。その脳の話もおもしろい。興味出て来た。そうした本を読んでたんでしょうね。ふうーん」
夏音は長い一呼吸のあと川に流すように言葉を浮かした。
「でも、それってさ。なんだか当たりのような気がする」
「槇村もそう思う」
「確かにどこか半神と似ているかもね。主人公の二人は一つの脳とも取れるし…一人を失うことはとても辛いことだわ」
「色んな読み方があると思う。それを考えるだけでも演劇向きじゃあないかな」
静かに思えた川の音が高まり、音は風のように日中の暑さを和らげている。
川の音もまた風なのだ。意味を変えれば多様もまたひとつのもので、ひとつは多様な現われ方でその姿をわれわれに見せている。現実衝動はちょうど脳の二つの胎児、右脳・左脳が一つとして働くことだ。シンクロしたときに起こる意識の変容と言ってもいいのかもしれない。
河原に散らばった大小の石が瓦のように敷き詰められて、内側から明るく灯っているように見える。夏音も同じものを見ていたのだろう。
「石が光ってるよ。反射ってさ、どこかひかりとの会話に見える時ない?」と話しかけてきた。
いつも独りで見ていたからあるよと答えた。
「…きっと話してる。孤独ってさ、寂しさの森を抜けるととても広い原っぱに出て、町も人も透き通っていくんだよね。太陽や、月の明りも、みんな透き通って魂の奥に届く。そして一緒に瞬く。会話みたいなもの。ひとりでいるとそうした会話を色んなものから聴くことができる。半神の主人公も聞いたんじゃないかな。最後のモノローグ愛よりももっと深く愛していた。憎しみもかなわぬほどに憎んでいた。というとこに孤独の深さと高さを感じた。人って何かから引き裂かれるたびに何度も自分を形成する。自分への思いがそうさせるんだ。槇村が憧れる化石になるとはそういうことじゃあないかな」
何に反射したのだろう?川風になびく槇村の髪が、槇村の瞳が、キラキラと光を跳ね返している。まるで川や風と会話しているようで、わたしもそう思うよ、そんな声が聴こえてくる。
何だろう。川の音と同調したのだろうか。時間が止まったような気がした。
夏音は言った。
「悲しくはないけど、寂しい気分になった。今キラキラとした孤独が隼世の中から走っていった。私には見えた。きっとさ。隼世の中の光が自由になったんだね」光が自由になる。
なんて詩的なことを言うのだろう。
「さっきの槇村こそ、誰かと会話しているように見えたけど」
隼世はさっき見た面影を思い出して言葉にしてみた。さすがに詩的というまでのことは無かったが。
「そうだよ。会話してた」本当の君と、隼世と会話していたんだよ。
「隼世の中にある光と。言葉にならない話をした」
「じゃあナツネも一緒に走っていたんだ」
「えっ」夏音は驚いたようにこっちを振り向くと名前を呼んでくれたと笑顔を見せ、ありがとうと静かに言った。
「あのさ、槇村」
「なに?」
「今日はありがとな、なんか自分が認められたような気がして自分を肯定できた」
「少しは成長したの」
「成長か。少しなら成長したのかもな」
「あのさ、隼世の光が走って行ったと言ったけど違うんだ」
「違うって」
「隼世の光ってさ、じっとそこで瞬いているともしびのようなものなんだ。静かにそこにいて守っているようなそういう光」
「えっ」
「病院で見た時がそうだった。なんか深い森の木漏れ日のような感じ。あの深い森は私の現状だったのかな」
「槇村の現状って」
「名前でいいよ。珠理のように名前で呼んで欲しい」
「ナツネさん…」
「さんはいらない。友だちのように呼んで」
夏音の親しさに疑問が浮かんできた。
「ナツネってさ。いつもそんなか。きっと勘違いする奴も出てくると思うぞ」
「ううん。勘違いなんてされないよ。私が勘違いしないから」
ん。どういう意味だ。自分で相手から勘違いされないように選んでいるということか。そんなことを考えていると夏音は遠い目をして黙するようになった。
耳を澄ましてでもいるように自分に没入している。
隼世はなにか喋ろうと考えたが思い直した。邪魔したくもないし、話しかけないでいる自分もまた自分なのだ。隼世もまた自分に没入していく。
一人で河原に来た時のように歩き、立ち止まり、和古川の音に耳を澄ました。
川は雄弁な音を上げ、空が静かに吸い取っている。車のエンジン音も、自転車も、時折り飛び急ぐ中型の鳥も、人の声もみな雄弁で音を立て合っているが、心が空のように澄んでいるとき、それらの音を心は空のように吸い上げている。
音はときに光だった。チカっチカっと光り合って消えていくところに隼世の心はあった。独りであった。でも不思議なことに近くに耳を澄ませた槇村の存在を感じた。耳を澄ましながら周りの音をとらえ自ら参加している存在感。
何だこれは?
「どうしたの」
夏音が突然問いかけてきた。
「わからない」と答えると「それが答えかも」と言った。
それでも、不思議な心地よさは隼世の内側に広がり、川の上を渡って行くと再び石の声が聴こえ出した。
いや違う!めでようとする自らの声だ。
隼世は夏音を振り返った。それが答えかもがまた聞こえたのだ。
「どうしたの」今度は夏音が不思議がって訊いてきた。
「それが答えだよ。きっと」
そう答えて隼世はなぜか安堵した。
…つづく