実家の近くに地下水が川のように湧き上がって流れている場所があった。

熊野神社のちょうど下である。

小さな沢の小さな清い流れ。その冷たさときたらじんじんと骨まで伝わってくるほどだった。暑い日などは近くに自生するフキの葉の大きいところを選んで、船形のコップを作って清水を飲んだ。

それが水の規準になったりもした。水道水は配水管の水に過ぎないのだ。

あの大地深くの香りはない。

清流には夏になると蛍が飛び交っていた。

その頃の小川は水が綺麗だったのではないかと思う。大量というほどではないが、いたるところに蛍が飛んでいた。

ホタル狩りとはその頃の思い出である。

あちらこちらで灯りを点す蛍は地上に降りてきた夜空の星にも見えた。

あるいは、家々に消えていったり、家々から現れる(ように見える)蛍を見ていると、人の魂のような不可思議さを覚えたものである。

祖母が亡くなったときの夜のおののきは今も忘れない。

部屋の窓から蛍が飛んでいないか見回していた。まだ春で蛍の季節ではなかったのだが・・・

人が死ぬとはどういうことで、どこへ行ってしまうのか。

焼かれて骨と灰になるというが、熱くはないのだろうか。

子供心に奇妙な連想が後に続いた。

幼い頃、祖父にコップ一杯の水を運んだのは自分だった。

祖父が最後に水を飲みたいといったそうである。

思えば自分よりも若くて亡くなった者もいる。

生の不安定さは一過性の季節の行事にも思える。

季節を一気に駆け抜けてゆくその足取りは闇の蛍のようだ。

記憶の中の灯り以外にしばらく蛍というものを見たことがない。

数年前に一度見ただけである。

蛍を思うといつも幼少の頃を思い出す。

昼のような確かな面影の記憶ではない不確かな面影たち。

どこか夢うつつで、本当にあったのかどうかさえわからない思い出、夜の仲間たち。昼の装いとはまた違う、闇の幻想にゆらめく灯りは存在の不安と結び付いている。

不安は心地よく知性をくすぐる。病的でない限り、知性は不安と共に成長する。

相反するものによって、人は行動を起こし、自分の動機を観察することができる。それは隠れているものの、夜の蛍のように内なる空間を彷徨っている。

夜の闇が蛍の灯りを隠さないように、心の静けさは動機を隠すことができない。

ただ蛍を摑まえようとすると逃げるように、動機の灯りは連想の町へと向かう。灯りは明かりの中に隠れるのである。

隠れられないのは人の孤独だろうか。

孤独、その不安定さは知性と対峙する。

不安定な孤独から逃れようとすると、知らず知らずに不自由を選ぶこととなる。

不思議だが自由とは孤独なものである。

自由に対する不安や弱さが孤独の姿を借りているのかもしれない。

ただ、孤独を自己の内深くに自覚するならば、それは思考の断片化によってもたらされたものでしかありえないのがわかる。

思考の二律背反は矛盾を抱えている。

だからこそ人は何かに追従したがるのだろう。

信じることも、力の希求も、追従と同じものなのかもしれない。

それらは同じように不自由を抱え込んでいる。

そして、孤独を隠そうにも隠し切れない弱さを持っている。

自由の地平に孤独が消え去るのは、

生き生きとした生の衝動目覚める時だ。

そうすれば、

彼は何ものにも従うことがない。

身体を世間にさらしながらも、

まるで置き去りにでもしたかのように無頓着で、覚悟の上で自らを信じる。

知性は生命の種なのだと。

生は知性の灯りを点して蛍のように自らの軌跡を描いているのだ。

道のない、深い自由の中を

頼りなさそうな意思は、惑星の軌道のように見えない秩序に従っている。

個の道は、すなわち万人の道という軌道を

 

思考は蛍のように彷徨い、飛んだ。

今年、は彼らを目にすることがあるのだろうか・・・

今年は出向いてでも見てみたい・・・と、

今はそう思う。

気分、体調は

下降気味である。