立石隼世と別れたのはちょうど橋のところだった。コンビニのバイトがあると言って走って行った。

「また今度話そう」隼世はそう言って橋を渡った。すると奇妙なすき間風が夏音の中に吹いた。渡った先の街並みを見ながらさっきまでの熱が霧散していることに気づく。夕暮れの川風はまだ三月だ。寒さがぞくぞくと背中をかけ上がって来る。

これも熱がある証拠かな。一人でいる時には感じたことのない種類、孤独とはまた違う寒さ。点き始めた家の明かりを見るととても寂しくなる。

この寒さには熱としての心の寂しさが隠れているんだと夏音は思った。

バイトか。夏音はバイトもしたことがない。学校まで自転車を取りに戻ると演劇部で使用している教室に明かりが点いている。珠理に頼み込んで入部しようか。ぶと夏音は考えた。

結論の出ないまま家にたどり着くと、ピアノの息が止まるような旋律のメロディーがドアのすき間からこぼれてくる。

今日は教室だっけ。靴を脱ぎかけると玄関の扉がバタンと閉じた。

「あら、おかえりなさい」

「ただいま」

レッスンだったのと母に聞くと。母は思い出して弾いていただけと答えた。

二階の自分の部屋で着替えを済ませるとキッチンへ下りていく。

「今日はなにかあったのかい。いつもより少し遅いようだが」

父が心配そうに訊く。

「遅いっていっても少しだけよ。何もないでしょ」

「ならいいが。じゃあ合気でもするか。体が鈍らないうちに」

「それこそ無理でしょ。夏音にも体と心の準備があるわよ」

「実はね」と夏音が切り出すと、テーブルに並んだ皿にも、父の発泡酒にも、母の運ぶ味噌汁にも緊張が走った。夏音が昔から嫌だった過剰反応。それは今も変わりない。「演劇部に入ることにした」一気にそう述べた。

「演劇部」二人が一緒に声を上げて夏音を見つめた。

どうせ質問が来るだろうと急ぎ言葉を続ける。

「ほら珠理いるでしょ。人が少なくて廃部かもしれないんだって。ひと肌ぬぐことにした。今日はそれで遅くなった」

「学校で演劇の出し物とかするんだろう」

「年一回秋にするよ」

「夏音が出演するなら見に行きたいわね」

「で、今年は何を演じるんだい」

…ん。まだ決まってないの」

夏音はそう答えながら隼世なら何をするだろうななどと考えていた。

もう少し話したかったな。夏音は部屋で自分の気持ちを振り返った。

まだ隼世の熱を感じられない。いつか見た静かに覚めた熱を。そのことを思うとなぜだかすうーっと寒くなった。独りの底で柔らかな温かさを感じていた。

 

「遅れました」

隼世はそう言いながらKマートに入っていった。

レジには一番若い沢木優子さんが入っているまだ二十二歳になったばかり。値下げには三十代の真壁祐一さん、品出しには服部紹子さんが携わってる。レジの込み具合を見ながらレジにも入る。忙しかったに違いない。機敏な動きで品出しをしている。これから夜間の管理者が来る。隼世はいわばそれまでの繋ぎだ。

「もう少し早い時間だと良かったのにね」

服部さんが声をかけてくる。季節柄三便の荷物が多かったのだろう。残りを片づけレジにも入る。意外とそつなくオールマイティにこなさなければならない。

「来たか高校生!服部さんと真壁さんの応援よろしく」

加治さんが売上状況をパソコンで見ながら声を上げた。

加治さんによるとコンビニ業界も競争が激しいらしい。同業他社どころか自店競合もあるという。開いた空間に碁石でも置くように出店し、エリアの優占率を上げていく。お店の効率も人事生産性も、少ないコストで最大の効果を上げようとすることに他ならない。後で加治さんの奥さんも来る。その頃には明日の発注を終えて、交代するように加治さんは引き上げる。仮眠のようなものだ。

世の中の正体がこんなものだ。何をするにしてもせわしない。一瞬一瞬をただ夢中に過ごす。時間は待っていてくれない。

石になりたいとか思ってもずかずかと現実の時間が土足で踏み入ってくる。

時間は消費される。なのに夏音と来たら

「沢木さん今日早いんだって。立石くんレジも見てくれない」

さっそくこれだ。

「わかりました」

「金曜は多いわね。デートかしら」

服部さんがすましたように言った。

そのデートという単語にふと夏音のことを考えた。

自分の心を知っているような驚きに打たれたからだ。男子にくらべ女子の方が早熟であることが多い。しかしあれは何だというのだ。

夏音の生い立ちに興味が湧いた。

シフトは途中三十分休憩が入る。

隼世はコンビニ裏でおにぎりとサイダーを飲んだ。わき上がる炭酸の泡を見ていると、石も世界をこの泡のように見ているような気がする。

それぞれ同じでもまったく同じということでもなく、実態はあるのに儚げで、第一現われ消えていく間隔がせわしない。石は現実をそんな風に見做せるのかもしれないな。隼世は内に音を立ててわき上がる時間の泡を感じた。

また今度話そう。自分の言葉がひときわ大きく弾けた。

夜間管理者の保科さんが出勤した。隼世が帰り支度をしていると加治さんの奥さんがきた。

「早いですね」と呼びかける保科さんに疲れた声で「しょうがないわよ」と答え隼世に気がつくと「あら立石くん。ばっけも忙しいでしょ。無理しないようにお母さんに言っててね」母が二度ほど倒れたのを奥さんは知っている。

「はい。ありがとうございます」と声を上げ、保科さんに挨拶を済ますと店を出た。

今日はきれいな星空だった。てんびんやうみへび、そしてスピカが瞬くおとめ座が南の空に見える。後二カ月もすれば夏の大三角が見えるに違いない。満天の星が輝く中をアパートに帰ると部屋はすでに暗い。

そっと音を立てないようにカギを開けると玄関で靴を脱いだ。

「おかえり。遅いけどなにか食べる?」

起きていたのか目を覚ましたのか、母から声をかけられた。

「目覚ましちゃった。遅いから食べるのよしとく。母さんももう寝て.

隼世は母のベッドの脇を素通りして奥の部屋に入ると、部屋の窓を開け空気を入れ替えた。新緑の風が壁にぶつかりながら部屋を満たした。ここにもサイダーの泡ができる。泡は異物である隼世の体から次々に生まれ夜の街へと出ていった。

町は人間の数だけ、あるいはそれ以上に泡が満ちて始終弾けているんだろうな。

大勢の人が無数の泡を放っているのが見えたような気がした。

 

翌週の月曜の朝だった。

「ねえ、私も演劇部に入った。何かいいシナリオないの考えてよ」

朝一番隼世は夏音からそう告げられた。

途端に体中から泡が噴き出した。

現実は百パーセントの炭酸世界。人はそれぞれ心が動いたぶん泡を立てる。

それはたとえ石でも例外はないのだ。

珠理と二人で自分の席に戻ると、高くなった珠理の声が聞こえた。

…鈴木智史だよ。…入部するって…分かんないの」

夏音が首を傾げている。

鈴木智史?

隼世も机に向かいながら首を傾げていた。

 

 

 …つづく