「四月の川はよしといたほうがいいよ。か」

へんなやつだったなあ。舘石隼世は先ほどの状況を思い出しながら歩いていた。

大通りを三本外れた道沿いの古いアパートに母と一緒に住んでいる。

母は隼世が小五のとき父と離婚し、姿を隠すように引っ越しすることになった。

アパートは大通りを外れた路地にある。周りには一戸建て住宅が建ち並び、南側には道路がある。その道路を東へ進むと水路に突き当たるT字路になっている。南に右折すると和古川、しずく橋へと至る。隼世が通う明成高校はさらにその先にあった。行き帰りに和古川を渡る。川の流れは諸々の堆積物を運んで行くようで止まらずにはいられない。黙々と流れる水を見ることが隼世の日課になっていた。

 

「さなえさん遺伝性の病なんでしょ」

「お子さんは?」

「今はまだ表れてないけど潜伏してたら怖いよね」

そうねぇ、と声は聞こえなくなった。

ごめんね。といつも謝る母だった。

隼世の背を見た時なぜか母の謝る声を思い出した。あいつも誰かに謝っているのだろうか。世界を閉ざしたような端正な無表情が浮かんでくる。

母の面影には白い靄がかかり、血の通う唇だけが思い出された。ごめんねの後にも何か言っていたが意味不明な口の運動でしかない。今さら何が言いたかったの。そう訊ねてももう自問自答でしかない。

鏡を前にすると私は私に問う。でも今日は違う。橋の上にいたあいつに問うて見たい。「きみは何を謝っているの?」と。

私が里親に引き取られるとき精密検査を受けていた。その時は何も出なかったが遺伝性の病は潜伏している可能性がある。それを発現しないように見守る事を里親は念入りに聞いて確認したらしい。

それからというもの年一回必ず精密検査を受ける。それは里親の愛情かもしれないが私には辛い。私は負い目をいつも感じている。そしてその負い目は日頃の私生活にも侵入してくる。私は人の支えが無いと生きて行けないし、生きててはいけないのだ。そんなふうに考えてしまう。私に遺伝性の病気が発現したらそう思うと私は感謝を返すこともできない役立たずだと自己嫌悪を感じる。私の生きている意味は

子供が出来なかった槇村充嗣・真佐実夫妻は小川夏音を五歳の頃に養子に迎えた。槇村充嗣は塾の講師をしており、さらには空手の道場で月三回教えている。妻の真佐実は日にちをずらしてピアノの教室を開いて人気だ。二人とも子供たちに囲まれわざわざ養子を取ることも無いのにと思うのだが、私を養子に迎えた。以来その愛情はわが子以上だったようにも思える。

いいなあとか、ウチの親はねとか、事あるごとに友だちからは比較されたが、私は自分の生い立ちを知りそれでも愛情を持って接してくれることに一抹の疑問を感じる。なぜ私にとか、なぜ私をとか、里親とはこういうものなのだろうか。それとも私の生い立ちになかったものだからだろうか。

私は制度で守られてきた。制度以上のものを感じたことがない。私と生みの母の関係性も、私の年齢のことも、何もかも最低限のところで社会に守られてきた。それが私という存在だ。

夕食のとき槇村夫妻は必ずといっていいほど学校での出来事を訊く。

初めの頃は嬉しかった記憶がある。自分のことを訊かれるなんてそれまでなかったから。でも最近は少しウザい。

真佐実さんから楽譜の読み方とピアノを学んだ事もある。普通の人よりは上手に引けるようになったがただそれだけ。作曲家の気持ちも音の気持ちも分からない。音はどこか数字と同じ。

充嗣さんからも合気道を学んだことがある。合気の道は夏音と同じ初心者だ。ただ相手とちゃんと向き合う合気は人と向き合うこと、社会と向き合うことの姿勢を教えてくれる。夏音の体にもイイと思うよ。

そして私は柔らかく円を描くような動作の中で少しだけ体から自由になれた。

村岡珠理という前田星とは別の友だちができたのは合気を通してだ。珠理は私と里親の関係を知っている数少ない友だちだ。

星の巡り合わせのように何かが動いたんだよ。と珠理は言う。

「夏音にできることは生きることだよ」と。

ありがとう珠理。おかげでなおさら考えるようになってしまったよ。

生きるということについて。

その日は里親に橋の少年のことを語ってみようという誘惑にかられたがやめておいた。そうそう里親のことは名前で呼んでいる。真佐実さんと充嗣さんって。高校に入学するときから二人にことわって父さんと母さんと呼ぶようにした。

それなのに少年のことを語らなかったのは、あの少年とどこかで会ったことがあるという不確かな記憶だ。それが分かるまでは黙っていよう。

そう夏音は思った。

翌日、夏音が登校すると白い制服がヤマボウシの花のように寄り集まってもうゴールデンウイークの話題に湧いていた。夏音はこのころになると今はいない亡き母との記憶を思い出す。思い出すといってもはっきりとした記憶ではなく、ぼんやりとした景色や、切れ切れの言葉の中にいつか住んでいた町を呼び起こす。なぜ五月に入る頃なのか理由も意味も分からない。ただぼんやりとしている。これが五月病というのだろうか。里親は旅行に出かけようと誘ってくれたが私のぼんやりも旅行も杞憂と終った。素直に気持ちを話しても日々遠くなる過去から死者を呼び出すようで怖い。珠理の家庭も色々と問題がありそうで近場の公園やハイキングなどいろいろと過ごし方はある。珠理は演劇部にも在籍しており図書館にも良く行った。過ごし方にこうだというような決めごとはない。ありなままに過ごせばいいのだ。

 

登校時は珠理と一緒になることが多い。

今日は私が遅かったのだろう。教室に入ると珠理はすでに来ていて私を見かけると手を振った。

「早かったね」と言うと「部活の打ち合わせがあってさ。ちょっと早かったの。ねぇ夏音。夏音も入部しない。人少ないんよ。このままだと廃部になっちゃう。ね。助けると思って」そう言う。

「なんで珠理は演劇をしたいの?」

「自分の一生も大事だけどさ。人生いろいろ。色んな考え方がある。知りたいんだ。色んな人生の色んな考え方。私欲張りだからさ。夏音は考えない。そんなこと」

「んー。あまり考えないかな。自分のことで精一杯よ」

「その自分を知る上でも大切だと思うけどなぁ」

そんな風に考えたことはなかった。人の生きるを見るだけではなくて自分で演じて生きてみるか。ふぅ~ん。

「このクラスにだって幽霊部員いるよ。全然興味なさそうなのにね。ほらあそこの浮いている奴。っていうか沈んで浮かんで来ない奴」

珠理はあごをくいっと浮かせ廊下側の中央付近を促した。

その動作に思わず振り返って捜した。すると確かにいた。俯き加減の男子生徒が。その横顔を見てギョッとした。

きのうのしょうねん!おなじクラスだったの。

驚きが頭の中で反響していた。

 

 

 …つづく