二、出会いのしずく橋
いつか過去と冷静に向き合えるのだろうか。
立石隼世は橋の上で自問した。
父と母は離婚したが離婚してからも父はやってきた。警察沙汰になったこともある。遠く離れたこの町へ来て安心できるようになったが、心の奥深くではまだ冷たい慄きが木枯らしのように吹いている。母さんはどうなのだろう。
いつか母は父をかばうように言ったことがある。
昔はそうでなかったと。しかし僕にその頃の思い出はない。
父の失業の事情は知らないし、たとえ知ったとしても刻まれた痛みは忘れることはない。母に対する仕打ちも許せない。
流れ続ける川の言葉はなんだろう。こうしてひとり立ち尽くしていると川に吸い込まれていくようだ。
波間に巻き込まれ、浮かび、漂う様は無常観というものだろうか。まだまだ川底には感情の砕石が流されずに残っている。濁流に運ばれてきたゴツゴツした石のように。風化し錆びついた赤銅けた金属のように。
自分は石だ。流されずにいる石だ。そう何度も思ってきた。人であるよりは何倍もいい。母のためにもそう思いたかった。
いや、そうじゃない。
何も出来ないから、自分のためにそう思っていただけなのかもしれない。
石はいつでも沈黙している。
水にどう扱われたって、砕かれたって、運ばれたって、下に地球があったらそこが居場所だ。本来いるべき場所を持っているから、石は自分自身に沈黙していられるのだ。
生物は化石になってはじめて居場所を持つことができる。骨は不平不満のないありのままの姿なのだ。
暴力も欲望も犠牲も恨みも憎しみも、ただ周りにふっついていた肉の世迷い言だ。自分も化石になれば…そうすれば…本来の居場所にありのままの姿でいられるのではないだろうか…
「四月の川はよしたほうがいいよ」
それは不意打ちのひと言だった。少なからずビックリした隼世は声のした方、左側を振り返って見た。すると。
同じように川を覗き込む制服がいる。リボンが川風に泳ぎ、スカートは優雅に飛び立つ鳥の羽のように揺れている。
涼やかな声も、青い風景も、制服のスカートも、今は似つかわしくなかった。
でも一瞬、あ、と声が漏れていた。制服はこっちに振り向くと「きたないから」と春色の顔を見せた。
制服には見覚えがある。同じ高校の制服で間違いはない。知っている顔かといえば、冷たい川風にほのかに赤みをさしているが残雪のような白さ。髪は水草のように揺れる肩までのボブカットで鼻筋は通り口は小さめ。瞳には淡い琥珀のような明かりを宿している。
想像するに、僕は今の情景今の姿、そして彼女の放った儚げな言葉からその意味を理解した。
彼女は僕の一歩先に死を見たのかもしれなかった。川へと落ちて行く僕自身を見たのかもしれなかった。
それはさ迷う心情の上では当たっていると言えなくもない。しかしそれもまた違う。心情の上では確かに近い。
それにしても石に死などあろうかと思う。
彼女を振り向く際に欄干を握る手が震えているのが見えた。
「確かに汚そうだね」
さりげなくそう言ったが、震えていたのは寒いから。それとも高所恐怖症かなにか…
僕の推測を中断させるかのように彼女はこう続けてきた。
「魚も少なくなったよ。上流には化学工場、その上には田園地帯、さらにはゴルフ場もある。春には活動も活発になるよ。選ぶのなら冬のはじめがいい。川も冬眠するのかな…動きを止めたように静かできれいな時がある…」
そんなことを口にしながら夏音は小さな違和感を覚えた。
この少年、少年と言っても年齢は同じくらい、の横顔に見覚えのようなものを感じていた。そして自制した声の響き、大人びたような感じにも。
「ありがとう」
そう言いながら少年は夏音を見た。少年には言っておかねばならないことがあった。
「勘違いじゃないかな」続けてこう言った。
「でもありがとう。川の流れは走馬燈のようだね」
安心させるような笑顔を浮かべ少年は「じゃあ」と言った。
川の上には橋があり、橋が橋渡ししたのかもしれなかったが、隼世の現実は誰とも橋渡しを望んでいなかった。周りを流れていく時間の川が、何かの拍子に音を立てただけだ。
歩き出そうとしたとき、一瞬寂しそうな顔が目に留まったが、ほんの一瞬のことで、臆病な鳥のように手を振っている。なんだろうとは思ったが、悪い気もしなかった。
隼世も同じように手を振り返した。彼女が放った言葉を同じように思い浮かべながら。
去っていく少年の背がだんだんと遠くなる。
何事もなかったように歩いていくその姿に、土手沿いの桜が散るような物悲しさを感じた。なぜだろう。なぜあの少年をこんなにみ身近に感じるのだろう。帰る方向は同じだったが、疑問を尋ねる勇気はない。
うちの高校の制服だった。大抵が同じ中学から進学してくる。中学ではついぞ見たことがない。ならば別の中学から来たのかも。それとも私より先輩と言うこと。
それもあり得ると思ったが、何か健気さというものが少年にダブって見えた。
その健気さが少年の年齢を若く見せたのだ。ということは小さい頃に出会ったことがあるのかもしれない。
夏音はため息をひとつつくと川の流れに目を移した。
走馬燈か…いつのことだったろう。
槇村夏音はあきらめにも似た吐息を風に告げ同じ方向へと歩き出した。
同じようなことは立石隼世の中でも起こっていた。
これまで会ったことも無いのにいつか会ったことがあるような奇妙な感覚。
父と別れこの町に来たのは七年前、その頃のことだろうか。
母と二人だけの家族、出発、開けた景色、小さな世界、明るい時間、そうした頃に見た、あるいは出会った誰かだったのだろうか。
外から内へ向かう求心の波紋を、隼世はまだ寒い四月の大気に感じていた。
まだ、四月は始まったばかり。
…つづく