三
「パパはどこ?どこにいるの?」
研究所に入るとすぐにサーシャはそう聞いた。
「まずきみには話しておかなければならないことがある」
レントは近くの談話室にサーシャを招くと、自分はコーヒーを、サーシャにはオレンジジュースを差し出して椅子に腰を下ろした。
「パパは戦争でひどい怪我を負った。それも通常じゃない怪我だ」
「でも生きているんでしょ。元気なんでしょ」
「ああ、確かに生きている。元気かどうかはきみに聞いてもらいたい。ただしパパはカプセルに入っている。顔も姿も見れない」
「どうして?どうしてカプセルに入っているの?」
「身体が砲火で焼け爛れていてね。カプセルによってその進行を食い止めている」
「苦しいの?」
「それはどうだろう?口は開かないはずなのに記録テープに音声入力してくる。その声はとても安定している」
「じゃあ話せるのね?」
「そうだ。話すことができる。その前に聞いて欲しいことがある。知っての通り今我が国は戦争の只中にある。きみのママも、そしてカプセルの中で延命治療をしているきみの父も戦争の犠牲者といってもいい。いや、きみたちだけではない。何万何十万という犠牲者が今も増え続けている。私はね。戦争を終結させたいと願っている。それも我が国の勝利をもって戦争を終わらせたいと考えている。そうでなくては亡くなった国民はただの無駄死にになるからね。そこでだ。我々がきみのパパに注目しているのは勝利の鍵がきみのパパの中にあるからなんだ。パパの中で何か起きているのか?今の状況をきみにどうしても聞き出して欲しいんだよ」
うつむきかげんに聞いていたサーシャが不安げに顔を上げた。何かが起こっていると気づいたのだろう。父親が焼死したような赤黒い肉塊となったとは言えない。まして死んでもいない。それにただの肉塊というだけでもない。融合を始めているのだ。
到底そのような事実があったことを聞いたこともなければ、想定することも困難だ。死後の肉体の物質化というならば無理にこじつけられないこともないが、彼には命があり生きている。いやどうだろう?
あの状態を生きていると判断できるのであろうか?
しかし意識があり、会話ができる。必要なのは科学などというものよりも古代の魔術や錬金術などではなかろうか?と何度思ったかしれない。最後の手段は彼自身に尋ねるしかないのだ。原子の火を安定化することができるのであれば、まず間違いなく目標となる勝利のテープを確実に切ることができる。
「なに?何を聞けばいいの?レントさんが聞いてもパパは答えてくれないの?」
「きみのパパは深い眠りに就いている。それも日々深い眠りに入るようになった」
「パパは死んでしまうの?」
「そうは思わないが、深い眠りは死に近い。もしかしたら目覚めないことも考えられる」
「そんなのは嫌。早くパパに会わせて」
「もちろんだとも。戦争の終結もそうだが、私はきみのパパを救いたいんだ。わかってくれるね」
サーシャはカラカラに乾いた口をオレンジジュースで潤した。レントはサーシャをじっと見つめ静かにコーヒーに口をつけた。その間中サーシャは沈黙のまま何事かを考えているようだった。
レントが「心の準備はできたかい」と聞くとサーシャは答えた。「パパが生きているなら、二度とわたしから去ったりしない」と……
長い廊下と階段を下りた先にその部屋はあった。
部屋の中央には大きなガラス張りの炉がひとつ、その中に白いカプセルがたくさんの管につながれている。
炉はまるで昔見た醸造所の樽のようだわ、とサーシャはピクニックに出かけた幼少の頃を思い出した。
その時はママも一緒だった。家族がまだひとつで、水面下で現実に暗い側面に化学変化が起きていることなど想像もしなかった。人間の化学変化はいつも心の中ではじまる。気づかずに、無意識で見た夢のように、現実からはるか遠くにあったのにいつの間にか現実を急激に変化させてしまう。
取り返しのつかない過去を結果として、取り返しのつかない未来が生じ、時間が解決するまで命は待つことも出来ず、たとえ時間が解決したとしても、解決した答えを、解決した現実を、その渦中に生きた者たちは見ることができるのだろうか?どうしてそうなったのか?を。
見ることもなければ、聞くこともできないのが本当の現実なのかもしれない。
歴史とは表立っては作られない、表立った場所にいる自分のようなものは数字に換算される。そうパパは言っていた。
希望は現実の前では単にぬか喜びさせるだけのものだ。パパの無事の知らせだってわたしの手の届かない場所にあるような気がする。
それでも……とサーシャはレントに言った言葉を心の中でくり返した。
パパは二度とわたしから去ったりしない……
その時、部屋中に満ちる声がした。
― 香味豊かなモルトウィスキーの醸造所だった。醗酵した麦の甘い香りが漂っていた。母さんとお前はお酒の入っていない林檎菓子と葡萄果汁を仲良く選び、私は洋酒のケーキに試飲のモルトを選んだ。おかげで帰りの運転は母さんだった。覚えているかいサーシャ。
ここではお前と母さんの笑顔が歴史を旅する彫刻像のように少しも古びずに時空の石版に刻まれている ―
テープが擦れるような機械音の中に聞き覚えのある声がまざっている。
パパの声?でもこんなふうに話すだろうか?
驚いて部屋を見回すサーシャを尻目にレントが炉の前に進んで招いた。
「さあここへ」
部屋には白衣を着た研究者が五人、カプセルから左右に伸びた管の先にあるモニターに張り付いている。レントの脇には点滅するボタンと多くのスイッチのある機材、それに机と椅子が置かれ、机にはマイクがあった。
「パパにはきみが来たことがすぐにわかったようだね」
「本当にパパなの?話し方が違う。パパじゃないみたい。パパの顔は見れないの?」
「それは無理だ」
レントは即答で答えたが間を開けず声が再び響き渡った。
― サーシャ、お前の不安はとてもよくわかるよ。会話は経験からくる言語連想と建築とによって成り立っている。
思い出は凝結した印画紙のように時間に織り込まれ、分厚い小説の任意のページに綴られている。
私は私の言葉で、サーシャはサーシャの言葉で、同じ時間が別々の言葉によって書かれている。お前が来るのがとても待ち遠しかった。私が変わったように感じるのも仕方がないことだ、私の体験が、私に起こった現実そのものが化学変化を起こしているのだからね ―
「パパなのね?」
― 私のサーシャ。もう離れたりはしない。置き去りにしたりはしない。絶望の愚かしさでお前を傷つけたりはしない。パパを許してくれるかい? ―
「博士。細胞の崩壊が進行し始めました」
「パルスに乱れが、脳波にも心音にも乱れが」
「これはいったい、細胞の分子レベルでの変化、いえそれとも原子レベルでしょうか?見てください。急激に……なんということだ。何もかも変化していきます。物質でしょうか?液体?それとも気体?は、博士、これはまるでキ・キマイラ(幻獣)だ」
「どうしたの?」サーシャが声を張り上げた。
「サーシャ。話を続けて、パパと話すんだよ」
「パパ何が起こっているの?大丈夫なの?」
― 大丈夫だよ。私にはもうお前の声しか聴こえない。そこに博士たちはいるんだろう。お前の心を通して博士たちの慌てぶりが伝わってくる。しかし彼らの声を聴くことはもうなくなるだろう。私は世界を移動する ―
「どういうこと?どこかへ行ってしまうの?」
― どこにもいかないよサーシャ。人間は世界を都合のいいように言葉で切り刻んできた。利用するために。
君臨するために。
戦争では人間の言葉の代わりに刃や砲弾が飛び交っている。ただの石や木の破片でさえひと度手にすれば隠れた言葉の代わりに他者の命を奪うこともできる。
人間だけに言葉があるわけではない。世界の言葉を聞くためには、サーシャ、お前は自分自身に耳を澄まし、どこまでも自分自身でいなければならない。世界は言葉で溢れている。自分に都合の良い言葉ではなく、自分に偽りのない言葉で世界は自らを見ている。世界は生きている。
サーシャ。愛するサーシャ…… ―
小さなサーシャが何かを言い続け、助手の研究者が手を振って何かを叫んでいるのが見えたが、無声映画の一コマのようで、レントにはすべきことが分からなかった。
幾筋もの光が閃いたかと思うと内向きに吸い込まれていった。
光すら逃れられない……原子爆弾と対をなすもの。
ああ、そうだ。彼の予言通りだ。
レントの心にひとつの言葉が生まれた。
プリマ・マテリアル。
神よ。私に何を見せようというのか?
レントは目の前で起きている現象を、ここに立ち会っている意味を神に語って欲しかった。
…おわり