いま静河はどこにいるのだろう。

欄さんと一緒にいるのだろうか。それとも別々の場所だろうか。

それにしても二人とも同じことを考えているのね。

未知は夜空から明かりのように降り注ぐ二人の声を聞いた、ような気がした。

 

急いで未知のもとに向かった静河は、未知から話を聞いて橋の方角に歩き出した。時折車のヘッドライトが道路を照らし、橋を渡っては木々の中へと隠れていった。辺りには夜の帳が落ち寒さが四方から押し寄せてくる。月だけが煌煌と東の空に浮かび、地上を月明かりで照らしている。

由香里ちゃんは大丈夫だろうか。

静河は河原の闇へと目を凝らした。

何かの影が蠢くのが見えた。すぐに胸の内ポケットを探った。

そこには欄さんに渡された紙片があった。静河は道路わきの明るいところを選びそっと閉じてある紙片を開いてみた。

これは密教呪術の北斗七星霊符の武曲星符と言われるものですとある。

奇妙な曲線は何か文字に照応するものか、それとも川の風景を現わすものなのか。

静河はひと言ふう~ん、とため息をつぶやいた。

確か護符にはマントラがあったはず。

続きを読むとこうある。「オンギャドロム」の真言を一緒に唱えれば災厄を免れる効果があると。

この場合は星符はあの星田妙見宮に向かって描けばいいのだろうと、静河は厳かに指を動かした。ふるえゆらゆら。静河は震える線を宙に引いて行く。

オンギャドロム。オンギャドロム。オンギャドロム。

続けて武曲星符のマントラを唱えた。

すると風に混じってつんと何かが鼻を突いた。灯油の臭いだ。

あれは?と河原を見た。微かに蒸気のような白い煙が上がっているものがある。

その煙が方眼紙のように空中に広がって行く。

そうか。そういうことか。

静河は心に筆を持ってその方眼紙に線を引いて行く。ふるえゆらゆら。

空間が凝縮する。そしてその空間に守られているのを感じる。

由香里さんは

燻ぶり続けているもの…臭気のもと…あれは。

近づこうとする静河の目もう一つの影が見えた。静河は走り寄って行く

その目に一台の自転車が通り過ぎる。

ぶすぶすとくすぶる臭気もひどくなって鼻を刺す。

社が乗った大岩の脇に小さな岩がある。小さいといっても十分に大きい。その岩にもたれかかるようにして由香里がいる。すぐに駆け寄ると由香里を助け起こした。

「け、謙治が…死んだ…」

絞りだすように由香里が口を開く。

「分かっているよ。もうわかっている」

「でも虫はいなかった。女の人だけ」

由香里の微かに開いた目が静河を見る。

「もうすぐ現れる…」

静河がそう話している最中に遅れて未知が駆けつけた。

「由香里さん大丈夫なの」

息が上がっている。走ってきたらしい。

「大丈夫。意識も戻ったようだ。それより夢で恐怖を届けた虫が来る」

「虫が来るって、どういうこと。ここに来るの?」

未知の声が裏返っている。

辺りを見渡していた静河が低く落ち着いた声でこう言った。

「そうだよ。どうやら来たようだ」

息を吞む未知の声が漏れたが、直前に静河の手が未知の手にすっと伸びたせいかはっとした驚きに留まった。

中州の砂利の上におぞましいものがいた。

しゃがみこんでいた由香里が立ち上がろうとして静河を見る。

静河は手で違う違うをしている。低い声が放たれた。

「虫は子供だ。りょうだ。追って来る理由は捜していたからだ。自分の母を。これまで母親代わりをしてきたものがその力を失ってきたから、りょうは目覚めて捜し始めた。当時遊んでいた鬼ごっこのように、鬼を捜して一人一人に尋ね歩いた。でも終りだ。母親はそこにいる」

「埋められて…」

驚く未知が由香里を見る。由香里は影があった橋桁を見たがもう影はなかった。

「出ておいで」

夢の中で追って来たものがそこに迫りつつあった。

未知はふらつく由香里を伴って立ち上がった。

静河が前に出。手には祖母が唱えていた延命十句観音経が刻まれた石を持ち、黒い繭を見つめた。

這っていた繭は、人を見つけると尺取虫のように伸び上がった。

一瞬どきりとした。しかしそれが何なのか静河には分っていた。

もう一度「出ておいで!」と静河は声をかけた。

繭のからというか虫の胴体から何十本もの手が、足が、四方八方に飛び出した。

静河は二人の息を呑む音を聞いた

その時…「モウイイカイ!」

空気が波紋のように響き合って子供の声を上げた。

これがりょうとかいう子の声?何と哀れな絶棒の声ではないか。

「もういいよ」静河がその声に応えた。

黒い全身で震えながら静河に向ってくる。

「こっちだよ。つかまえてごらん」

英介は川に向って歩き出した。虫が付き従う。何十本もの手足が月光に揺らめき白波に見える。

亡くなった者たちは夢で、あるいは現実でこんな虫を見たのだろうか。巨大な気味の悪い虫。それが本当なら恐怖と気味の悪さで誰でも逃げ惑うだろう。

でもなぜ虫なんだ。正体がりょうだとしたら虫になって現われる理由がわからない。

静河ぁー。静河は分かってるの?

問いかける未知の前で不思議な光景が展開する。それはまるで異界の鬼ごっこだ。この中洲自体が三途の川なのだ

の中に見える白いものが少しずつ少しずつ孵ろうとしている。

河原の人は固唾を飲んでその光景を見つめていた。

静河は立ち止まると、握り締めた右手を突き出した。手には人を視る時に使った石がある。その姿は念を送っているようでもあり、何かを尋ねているようでもあった。立っていた場所から歩下流へ移動すると、岩の手前でスコップを振り下ろした。先端が地面に突き刺さって

ザクッ。ザクッ。ザクッ。何度も。何度も。

先端が地面に突き刺さって現実に亀裂を入れるような音が響き渡った。

は川の手前でうずくまったままである。

「どういうことな未知の手に思わず力が入った。

金縛りにでもあったかのように体全体が固まっていた由香里がかすれた声を上げる。「りょうちゃんの母親がいる

「りょうちゃんの母親?…あそこに埋まっている

「謙治に埋められた。父親の謙造も関わっていたのかもしれない」

「どうして」

「都合が悪かったんじゃない。それとも事故とか…」

「りょうってもしかして二人の子供。謙治には家庭があるよね。…そう、そういうこと。都合が悪いって。こじれて起きた事件だったわけね」

でも分かんない。なぜ虫なのか。なぜ今になって現われたのか。

りょうはいつからかずっと母を捜していたのよ。きっと寂しかったから

スコップを振り下ろし続ける英介の背中を遠くに見ながら、由香里は消え入りそうな声で言った。

 

川岸に止まっていたから白いものが姿を現した。半透明の小さな靄…ぼんやりとした姿、そして半ズボン…Tシャツの子供の姿。

あれ

「りょうちゃん何処にいるの?

「わからない。でも静河は知っていると思う」

人の視線の先で、懸命に掘り続けていた英介の手が止まった。

ガラン。

スコップを放り出して膝をついた英介は両手で砂を掻き分ける。

そこには何かがあった。指先を通して衝動が伝わってきた。

その時だった。

この世のものとも思えない声が響き渡った。

張り裂けんばかりの金切り声が夜を震わした。

思慕にかられた魂が絞り出した悲痛の叫びが

りょうが上げたものなのか、母親が上げたものなのか、それはわからない。

叫び声はぐるぐると空中を回り、渦を巻いて空高くへと昇っていくように響いた。気づいた先にはりょうの姿はなかった。

静河がただ一人でうずくまっているのが見えた。

一陣の風が川上から吹いてくると、川岸向こうからこだまが返ってきた。

返ってきたこだまは「ママ」と細長く引きずるように届いた。

英介はじっと地中から顔を出したものに見入っていた。

ボロボロに朽ちた麻袋の一部。

これだ!欄さんの推測は当たっていたな。

それに祖母ちゃんが死んでなお気にかけていたもの。

それがりょうを守ってきた福慈桜だ。

枯れることを慄いた桜の木が祖母に訴えていたのだろうか。

母子が上げた叫び声、その憎しみを祖母が包み込んだまま、川向こうへと渡っていってしまった。静河はそんな気がしてならなかった

静河はポケットに残った石をぎゅっと握りしめた。

 

その頃欄は切れ株になった福慈桜の前にいた。

「あなたが今回のことを起こしたのね。この町に来た親子を憐れんで」

欄は持参した水を柄杓ですくうと優しく幹のまわりへと振りかけ、何事かをつぶやいた。それは何度も水が無くなるまで続いた。

「静河さんの祖母にもお礼をいわなくちゃぁね」

欄が夜空を見上げると月が南天に昇りはじめていた。

「まあっ」

欄が驚いたのは失われた桜の威容を夜空に垣間見たからだった。

 

 

 

 …つづく