未知と由香里に対して静河は自分の考えを簡潔に語りだした。
問題は溝口家だという。
「でも一連の事件とは直接関係ないでしょ」と未知が答えると、関係がないからこそ裏に見えていない何かを感じるのだと言う。
「いいかい。昭夫と孝明は鬼滑りの崖で溝口さんに迫る影を見ている。それを人影だといった。虫じゃない。具体的な何かだ。警察が川を調べても溝口さん以外に発見された人はいない。ということは実際の人間ではなく心霊に関わる何かだ。それを知るには溝口家を探る必要がある。そこで未知に、由香里さんにもちょっと見張ってもらいたいんだ」
「私はいいけど。由香里さんはどうなんだろう?」
「未知はこの町のこと知らないだろう」
すかさず由香里はこう答えた。
「ミチルさん。私もいいですよ」
「従兄さんはどうするの?」
「欄さんと一緒に封じ込めを一計してみる」
「封じ込めって?」
「この町がというか小学校や浄福寺、祖母が育ててきた無意識の根っこにあるもの」
「じゃあ私たちは安心していいのね」
「試してみなければ分からないけど、そう願いたいね」
「あら静河さん。慎重だこと。後でちゃんと説明しますが私がこの町に来たのは当てがあるからです。必ず封じます」
初めて会った時のような不思議なオーラを身に纏い、さあやるわよとでも言うように欄さんは静河に目を走らせた。
静河はその言葉を受け取るとこっくりと飲み込んだ。
山際の雲は赤々と燃え、夕日が落ちるのは早い。
浄福寺からの帰り道、由香里は義姉に連絡してみたが兄に変わりはないという。未知と一緒にというか案内して溝口家へと足を伸ばした。
未知は静河から深入りしないことと釘を打たれたが、溝口家の人々はまったく縁もゆかりもない人たちである。
自分に何ができるのか?想像することすらできない。
由香里は?と様子を伺うと、何をすればいいのかしらと未知に訊いてくる。それだけではない。むかし静河に恋心を抱いていたと告白めいたことを口走る。おかげで未知は溝口家に着くまでそれを聞く羽目になった。
未知が想像していた通り、美丈夫の従兄には不思議な魅力があったらしい。
一番惹きつけられるところを訊くと、あこがれかなと答えた。ただそのあこがれは決してという程近づくことはないのだが。
わざわざそんなことを教えることもない。由香里のような勘のいい女性ならおのずと気づくことになる。話のふしぶしに静河の関心の移り変わりを。
そうなのだ。静河は浮気っぽい。恋愛にというわけではない。興味が呼吸のように移り変わる。今回のこともそろそろ移ろうかという時節まで来ている。未知はそう感じている。こうしている間も静河と欄さんの二人は私たちを助ける手だてを考えているに違いない。そういう人なのだから。
「あれ、どうしたの」
溝口家の前の道を救急車とパトカーが塞いでいる。それに野次馬が多い。知っている顔を見つけたのだろうか。中年のふくよかな夫人に話しかけた。
「何があったんですか?」
「あらあなた。由香里ちゃん。奥さんが、溝口さんの奥さんが勝手口で倒れてたって。生協の配達員が見つけたらしいの。それが亡くなっていたらしく、不審死じゃないかって警察も来て大変な騒ぎなの」
「旦那さんは?」
「さあ、さっき帰ってきたって聞いたわよ。どうして?」
「町の名士だからね」
「由香里ちゃん名士じゃなくて、まだJAの職員よ。名士はお父さんの方」
「そうだっけ」と由香里は笑い、未知を振り返った。
「ミチルさんどうしよう?」
「静河に訊いてみる」
未知はそう言ってその場を離れ、道なりに裏手に回って静河に連絡を取った。
やっぱり。と静河は言う。
「この事件には幾つかのことが複合的に絡まり合っている」
「黒い虫も?」
「ああそうだ」
「分かったのね」
「分かったことと、終わらせることとは違う。しばらく溝口謙治を見張っててくれないかな」
「大丈夫なの」
「ぼくと欄さんを信じて」
一連の話を由香里に話すと一にも二にもなくただそうしましょうと答える。
二人は聞き耳を立てながら溝口家を回ることにした。
聞こえてくるのはお悔やみと、死体が死後解剖に回されたこと、明日には謙造の死体が帰ってくることなど、まるで野次馬の噂話だ。
道路で声がする。
「謙造さんがいる頃はよかったけどねえ」
「謙治さんじゃねえ。色々ねえ・・」
「そうそう。ほら一度…」
「・・・」
主婦の一人が、立ち止まっている二人に気づいたらしい。
話を聞くことができたらと思っても、話を訊くのはなかなか難しい。すでに不思議がられている。こういうとき頼りになるのは自分の親ぐらいのもの。話し好きで詳しそうな人を当たるしかない。
でも誰か噂好きの心当たりなんてあるだろうか。などと思っていると
溝口家の戸の開く音がした。金属の擦れる音とともに、勝手口の木戸が開いて自転車が出てきた。続いて男が出てくる。
誰だろう?不審げな男に興味が湧いた。
しかし由香里は謙治の顔を知らなかったのである。
二人の横を自転車が通り抜ける。そっと目を走らせ男を見る。落ち窪んだ目をした暗い顔の男である。つーんと、灯油の臭いが未知と由香里の鼻を刺す。自転車には小さなポリタンクと他に、奇妙にもスコップが結わえてある。
由香里の心臓は早くなった。未知も自転車の男と由香里を交互に見る。
すると自転車はかすかな傾斜のついた道をすべるように下っていく。橋の方だ。
「どうする?」と未知が訊いた。
「あのスコップ…それにポリタンク…気になる。私追いかけてみる」
「相手は自転車よ」
「私陸上部だったの。それにね。静河さんの役に立ちたいし…」
由香里はそう言いかけた後、最後まで語ることもなく意を決して走り出した。何かをせずにはいられない衝動が由香里の足を動かしていた。最初は追いつくかもと期待させる走りだったが、自転車との距離は徐々に離れていく。
「なにあれ、ムキになっちゃった…」
未知は小さくなる後姿に手を振りながら携帯を取り出した。
自転車はまっすぐ橋に向っている。見失うこともないが、いったい何処へ向かっているのだろう。それにしてもさっきの男、町議会議員だった溝口謙造に似ていた。あれが溝口謙治だろうか。遠くなる自転車の後ろ姿を見る。
男が謙治だとしたら妻が不審死で亡くなったこんな日に出かけなくてはならない理由とは何か。父親に妻の死と精神的にも負担には大変なものがあったはずだ。由香里の息も上がってきた。
どこまで?と自分に問うと、橋まで!ともう一人の自分が答えた。
何かけじめをつけないと後悔しそうだったのだ。そして、後悔は意外と早くやってきた。すっかり息が上がったのである。
橋の手前で由香里は立ち止まった。大きく深呼吸を三回。それからゆっくり呼吸を整え橋に向かって歩き出した。
橋まで・・橋までだ。そう自分に言い聞かす。
日は暮れかかり、闇が迫って来ていた。家々が途絶えた先には林や藪やら、そこを大きく曲がって行くと橋が見えた。由香里はとぼとぼと道端を歩き続けている。自転車はもう見えない。それでも橋まで歩き続けた。
その頃静河は寺田家である写真を食い入るように凝視していた。
こいつか…この少年が…りょうちゃん。
浩市や亮子に出現した第一の虫?
そして溝口家に出現した第二の虫は…
パズルのピースが次々にひとつの絵を組み立てていった。
…つづく