七時を過ぎるという時刻。

いよいよ帰路につく町の衆から隠れて裏道を急ぐ。

家々に灯る明かりを逃れて調石神社の鳥居へと急ぐ。

急ぐ足下の石が、草むらの葉が、むくりと、急に大きくなった。

単調だった虫の独奏が道々に、道から街中に、重なり合って、また響きあって、夜半の潮騒のようにこだました。

つい先ごろまで半眼だった那伽の眼が、いまは見開かれ中天に懸かろうとしている。那伽の躰は髑髏を巻き西の空に立った。

過去と現在が程好く抱擁し合うと、はたして、沙夜さんは鳥居の前にいる。ぽうっ、と立ちのぼる鬼火に支えられて、今や鳥居をくぐろうとしている。

ひとつ。ふたつ。みっつ

鳥居の向こうは外宇宙…幾つもの月石が晶(ひか)り、足元を照らして奥へと招いた。いよいよ沙夜さんは鳥居をくぐる。古木林はいよいよ暗く、漆黒の瓦斯に覆われて、鳥居を過ぎた頃、虫の音ときたら同時にぴたりと止んだ。

くっくうる。苦っ…狂うくくっ。

突如山鳩の囀りが闇に響き渡り、森を揺らした。

沙夜さんの首元までの横顔と、白い足袋の振り子が闇の中を、コトン、またコトンと、闇の奥へと進んでいく。

周りは漆黒の宇宙である。

なんどきが過ぎただろうか……と、遠くに石舞台が浮かんで見える。

石舞台の周りできらきらと明滅しているもの……あれは飛沫であろうか?月の滴であろうか?

沙夜さんの全身が見えた!

夏の名残の白い浴衣姿の沙夜さんが見えた!

すると左右から一本足の蛙が現れて沙夜さんの手を引いた。

そして月明りはちょうどよくなった。

あれは、調石神社の列石の群。調石の本尊。

煌々と石は照らし出され、飛沫に見えた笹の一群が手拍子叩いて沙夜さんを迎える。その葉先の指に鈴があった。石読祭の願い鈴。その願い鈴が一斉に鳴った。

千来万来の鈴の音が、ちょうど大潮のうねりのように森中にこだました。

中央の石にいつかの兎が現れた。真っ赤な目の…いや正面を向いた片方の目は真っ黒な洞である。その洞に向かって沙夜さんは赤い唇を近づけると奇妙な節で音(おん)を吐いた。

躰が左右に動く。地震か。否、森が動く。否否、闇が動いて石舞台へと繰り出した。その闇とは、何ということだろう!

闇の正体は無数のケガレたち!

ケガレは百鬼夜行の妖怪と化して月明かりに姿を現した。

それだけではない。

沙夜さんが音と息を吹きかけた兎の左目の洞へ次々に吸い込まれていく。ぼっ、と兎の右目に火が点り、真っ赤な炎が火花を上げる。紅蓮の大火がケガレを焼く。沙夜さんは続けて音を焚く。石に落ちた灰が文字を書き、町の人々の、国の、闇に隠した邪な言葉を浮き出たせ、石はぶるぶると躰を震わすと一回り大きくなる。そして牙の並ぶ口を開く。

ぐおん。ぐおん。阿鼻叫喚の叫が聞こえた。

列石は護摩法要の回り舞台なのだ!

ケガレとは死者の未練の声。彼岸に渡れない邪な思い。欲。願い。呪い。執着。未練。その数々が燃えた。声を上げて燃えた。

「さあ最後はあなたの番ね。」

沙夜さんが兎に顔を近づけて言った。

「あなたは願ったでしょう?心ならずも念じてしまったでしょう?」

沙夜さんの顔が目の前にあった。

もう死美人ではなかった。

それは私以外に見せていた軽薄な笑顔と違い、内なる明かりによって笑顔は生者のものとなっていた。

「でもいいのよ。あなたは月兎の空蝉。私の役目の業を共に背負った。それでいいのよ。でも、あなたはさみしい。妻を娶り、子を授かったとしても、さみしい。あなたのこころのかけらは、すでに月にいってしまったのだから…」

 

翌日、私は石舞台の上で発見され、沙夜さんは石舞台からも、町からも、人々の記憶からも消えていた。

私は何故そこにいたのか、今となってははっきり思い出すことはない。しかし。

その後、私は自分で初恋と思える恋をした。

心を躍らせる何かがあったかといえば、猛烈なさみしさに襲われただけだった。その理由はわからない。

ただ見上げた月いつも欠けていることに気づいたのは、あの祭のことをうっすらと思い出したためである。

得てして、歳上の女性(ひと)との初恋とは死者との恋なのである。離れた歳の分だけ恋人は死者なのだ。沙夜さんがあの時十八年先の死者だったように。

そしてまた。

横恋慕の恋は三日月の針で心の臓を餌にするようなもの。喰いつくのは百鬼の穢れだけなのである。

笹の鈴は今日も空から降ってくる…私を呼んでいるのだろう。

 

 

 

       …(おわり)