浄福寺石鳥居をくぐると、左右の塀を隠すように竹の生垣が続き、石畳を踏みしめながら、手入れのとどいた松の下を抜けて行くと本堂があった。その本堂を迂回し母屋の玄関のチャイムを鳴らしていた

「お前松代さんとこの静河か」

玄関で待っていると出てきた坊さんにそう声をかけられた。

苗字を言っただけでこうも簡単に分かるものだろうか。

背筋をしゃんと張り、静河を見る目には力がこもっている。

浄福寺の和尚春円は、静河のことも祖母の松代のこともよく覚えていた。そればかりか祖母とは幼馴染なのだという。

祖母の幼馴染。静河は感慨深げに和尚を見た。

「どうだねその後疳の虫は治まったか。さぁ、上がれ上がれ」春円はそう言うなり、静河たちを奥の間へと招いた。

廊下を過ぎる時内庭が見えた。反対側には広間がある。幼い頃、祖母はその広間にいて、英介は庭で遊びながら祖母を待っていた。

廊下は庭を囲むように左へと折れるが、その突き当たりに小さな奥の間がある。小さいといっても、入ると八畳ほどの広さである。和尚は上座につくと茶托を引き寄せた。

「喫茶去。じゃな」と言う。

「はぁ」と孝明が間抜けそうに答えると、和尚は顔をほころばせた。

「茶を飲んでいきなされ。ということだよ」

そう言う和尚の言葉は、静河からしてみると、話してみなされ、と聞こえたように思えるから不思議である。

来ることを知っていたようにも感じる

事件のことは除いて、静河は自分の身に起こった夢や金縛りのこと、奇妙な浮遊体験のいくつかをありのままに語った。語りながらその話に一番驚いたのは語った本人で、和尚は湯飲みを両手に持ち、別段驚くこともなく急かすこともなく、淡々と耳を傾け、英介の話が終わるのをじっくりと待っている風情があった。由香里にしても、昭夫や孝明にしてもそんなことは知っているといわんばかりに平然と聞いている。

春円和尚は欄美涼に一瞥を送ると祖母について語りだした。

マツさんはわしの一つ下で、小さい頃からお前と同じでしょっちゅう熱を出しとった。いやいや、これはあとの受け売りが。その頃はわしも悪ガキで、ほんとは何も知らんかった。ただはっきりと覚えていることがある。マツさんはその日も熱を出して伏せていた。ちょうど盆の頃でわしはこの通り寺の子。何じゃったか、檀家への使いでお前の家にも行ったんだよ。そのときサトさん、縁側に座って手を振ってきた。近づいていくとこう言うんじゃ。春元さん。春元はわしの本名だ。春元さん。けんかはだめよ。降参していたのに殴っちゃだめよ。張明さん泣いてたわよ。みんなに差別されているんだから、春元さんも差別しちゃあだめよ。お寺さんでしょ。と、こう言われたとき、わしはびっくりしてのう。その日のこと、なんというかついつい同級生の張明と喧嘩したんじゃ。時も時。張明は朝鮮の血を引いとったこともあって、わしもいいとこ見せたかったし、張明も頑固なところがあった。最初はちょっと懲らしめてやれ、ぐらいだったのに、周りで煽るんじゃよ。張明にしてみれば回りは全部敵のようなものだし、わしの方は味方を得て負けるわけにもいかんし、中止することもできなくなって、もう取っ組み合いじゃ。後味が悪い喧嘩でのう。サトさんそのことを見てきたように話すんだよ見てたのかー言うと、空から見てたって言うんで、怖くなってすぐに寺へ帰ったんじゃ。帰ってすぐに親父に言ったら、サトはイタコの気があるんだと言われた。まあ口寄せとか霊能者のたぐいのことだ。わしはその後張明を呼んで謝ったんが、マツさんはそのことも知っていて、『良かったね。後悔しなくてすむよ』と言ってくれた。そのときは後悔って何だと思ったが、数年後この町の半分が焼け出され、張明も町を出て行ってしまった。あれは本当に今でもはっきり覚えとるよ。占いやイタコなどは仏教の方では良く思われてはおらん。ただな。マツさんはそれは信心深くて人の心を騒がせるようなことは言わなんだ。言っていいかどうか迷うようなときには、わしにも相談しに来てくれたものだ。人の心をみだらに迷わせたり、不安にしたりもしないもので、いつしかここで、人の相談も受けるようなことになっておったんじゃ」

茶をすすり、少しうつむきながら、春円は思い出すようにたんたんと語り続けた。その春円が顔を上げて静河を見る。

「お前のことは、わたしに似ていると言って本当に可愛がっておったぞ。ただ、力も受け継いだようで心配だ、とも言ってたな。今はどうじゃ。今も見るのか?」

「今は夢だけです。いや夢だと思っていたんです。小さい頃のこともぼんやりとしか覚えていません。夢のような記憶としか覚えてないのですが、先ほど自由になったといいますか、心のつかえがとれました

「そちらのお人のおかげかな」

春円は欄美涼を見ながらそう言った。

 

いつしか静河我が身に起こる不可解な体験のことを語っていた。語ることで心が晴れていくのを感じながら

「そこじゃよ。そこをマツさんは心配していたんじゃ。簡単に言えば普通の人よりも情報が多い。多いばかりか、そのことを人に話せば変な目で見られる。心のバランスを崩せば精神の病じゃ。現実と夢の区別すら出来なくなりかねん。今の時代にそんな人生を歩かせたくなかったんよ。人によっては成長していく中で力を失う者もいる。夢なら誰でも見る。夢として割り切ってしまえば問題はなかろう。ただ、そうもいかないのが授かった力だ。さっきのお前の話じゃ。マツさん枕元に立ったというし、もしかしたらお前の力がまた戻ってこようとしているのかもしれん。心配なのはお前の前に何かが立ちふさがろうとしているような気がすることだよ。どうじゃ。何かまだ話していないことでもあるんじゃないか。マツさんのことは良く知っとるし、驚きもせん。隠すことはないぞ」

春円に見つめられていると、祖母が自分をここに招いたような気がしてくる。英介は改めて今回のことを春円に語った。

順を追って、由香里や兄の浩市、そして友達の身に起こっていることを話しだした。心の荷を下ろす安堵感を覚えながら。最後にアミル堂と欄美涼のことを語り終えた。話の間中、春円は厳しい顔を崩すことなく聞いていた。

「これが夢で祖母がいたところにあった物です。実家から持ってきました

英介は石と神折符、そして祖母の写し書きを広げた。

春円は身を乗り出してそれらのものを見回した。

「マツさんは信心深かったが、これには仏の名前経典、それに梵字による種字が書かれておる。この木形の仏は阿弥陀仏。石に彫られているのは、延命十句観音経というものだよ。マツさんは白隠さんが好きでのう。白隠さんの霊験にあずかってよく唱えておったんじゃ。マツさんの日頃の請願と精進が見られるよう。それにしても英介。マツさんの机にあったのはこれだけだったのか。おかしいのう」

「それはどういう」

「つまりじゃ。マツさんは信心深かったが、イタコの能力も持っていた。当然、川島宮すなわち白島比咩宮にも参拝していたし、白山神社に移ってからもお祈りは欠かさなかったはずじゃ。お前の言うとおり、これぐらいしかなかったとしたら、何処へ行ったんじゃ

「何処へ行ったとは、何がですか」

「コノハナサクヤヒメじゃよ。肌身離さず持っていたんだが…」

「何を持っていたのですか?」

「静河は知らんか。お札かお守りのようなものだったと思うがな…」

「和尚さんはその中に何が入っているか知りませんか?」

福慈桜の由来じゃよ」

「福慈桜?」

「ほら、あの成生西小学校にあった見事な桜じゃ。亡くなる頃になると気にしとったな。桜はまだ咲いとりますか、とは訊かれたが、どういうことじゃったろう。今年春に校舎を取り壊すことになってなぁ。そのときに伐採されることになっているんだ…この町にも高齢化の波がやってきとる。土地を造成した後、高齢者施設できるらしい」

「あの和尚さん、その福慈桜の由来って知ってますか?」

「じゃあ話して話してきかそうかのう」

和尚は心の底を覗くようにしばし目をつむり沈黙した後語りだした。

「寺の文献や言い伝えによると、昔々のこと。

村の西の盆地に根無ガ原という枯野があった。木一つない寂しい野原で、吹きすさぶ風だけが鳴いていたという。その野には累々たる死者が眠っているとも、黄泉の神が眠っているともささやかれ、忌み地となって人々が寄り付かなかった。

ある年、どこから出たとも知れぬ火で、根無ガ原の草が焼け野原となってしまった。そんなことはよくあることじゃ。だがその年からのこと、飢饉に疫病など、次々に災難が村を襲い、狂い出す村人も出る始末。その狂い方がひどかった。アヘンの禁断症状のような有様でな。困った村人が人柱を立てようと思い企んでいるところに、旅の法師がやってきた。

法師の申すことには、この地の穢れは人身などではとても清められぬ、とのこと。法師は式神を天地に放ち、符呪と物忌み祓いを行って、邪気を封じ結界を張った。

それでも、土地に残った穢れは執着を断ち切りがたく、法師はどこから持ってきたのか、木も育たぬ土地に桜の苗木を植えた。その後、法師の鎮魂の儀式は四十九日続いた。

苗は一晩で一尺、また一尺と、四十九日で見事な桜となり、この地の穢れはこの木の花が清めてくれよう、と申して去っていった。

翌春のこと。法師が申したとおり桜には満開の花が咲いた。それも驚くほど赤く、遠くから見ると血の色に見えたそうじゃ。この地はかつて国境の戦が行われた場所で、流された死者の血が、土地の穢れとなって悪さをしたのだろう、と法師が村人ったと言う

同じ年、村人の手で社が建立された。これがそもそもの浄福寺の始まりである。

血を封じることから付けられた名前とも言われるが、真偽のほどは定かではない。そしてその桜は御神木となり年々花を付けていたが、真っ赤な花はだんだんと桜色に変わっていき、どこにもある桜となったそう

以来桜は地鎮の桜といわれ、浄福寺の端にひっそりとあった。

大戦のさなか町の半分が焦土と化し、成生小学校が焼け落ちてしまったときでも、福慈桜は枝先を焦がしただけで、時ならぬ花を咲かせたという話じゃよ

神社には神主夫婦と若い巫女が住んでいたが、焼死体は二つ発見されただけ、近くの防空壕でも見つからなかったらしい。もっとも、争乱の著しい時期、いずこかで亡くなったと思われるが知る者もいない。

その後町の復興とともに神社建立の話たが当時は神主もいなかったことから、戦後の復旧の慌しさの中に埋もれてしまい、後に学校を作る話が持ち上がると、こちらはすんなりと通って小学校が作られた。これが富慈宮小学校である。校庭を作る際に防空壕跡も埋め立てられた。以来、春になると小学校口でお祭りが開かれるが、富慈宮祭今は無き富知神社の名残であり、戦後の子供たちの未来を讃えるための祭りにもなっている。という。

まあそんな話じゃな。マツさんは福慈桜を良く拝んどった。

この桜には心があると言っておったな」

「こころといいますと、木霊か何かですか」

「ほう。過去の歴史からして妖木となる可能性もあるかもしれんのう。じゃが木霊の性格上、悪夢や虫とは結びつけられんぞ」

「そこです。本質はそこにあるのではないですか?」

「そういえばマツさんがお前のことを大層心配していたことがあったなあ。何でも夢を見て怖がるとかいっとったなあ。その時じゃ。お前の記憶に関与したといっておったのは…」

「何ですかその夢というのは?」

「町の中心部の小学校へ通っていたから知らんだろうな。夢では見たように知っていたらしいが」

「夢で知っていたとは、もしかして校舎を逃げ惑う夢のことですか?」

「然り然り。お前は夢で浩市になっとった。つまりは浩市としての体験を見ていたことになるな」

「ああ、それできみはぼくだよ、か。…」

静河は恐怖の夜のことを語りだした。

いよいよ話が核心に近づいている。

未知は渇いた喉に唾をごくりと飲んだ。

 

 

 

 

    …つづく