神代町の町議会議員である溝口謙造は今年六十七歳になる。
息子の謙治は四十一歳。JAの幹部で、そろそろ父親の後を継ごうとする歳になっていた。子供は三人。上から十二歳、九歳、八歳。男、女、男の順だ。
家庭は円満で仕事も順調である。謙治は大学を卒業すると同時に神代町にUターンして働き出した。渡りに船とも言うべき良い縁談もあって、働きはじめて一年もしないうちに結婚し、今では町に欠かせない顔となっている。そんな謙治がうなされるようになったのは、ここ一週間のことだった。
夜中といい、朝といい、謙治は妻の佐知子に身体を揺すられながら起きる。汗をかいて何度も寝返りを打つばかりではない。あるときから叫び声で飛び起きるようになっていた。酷い悪夢に苛まれながら内容が思い出せない。佐知子からは、何も覚えていないなんて信じられない、と心配され、だんだんひどくなっているようよ、と神経科の医者を薦められている。悪夢が謙治の現実を蝕み始めたのは家隆が亡くなる前日のこと、夜中トイレに起きたときに始まった。
謙治は電気をつけずに廊下を渡る。外からの月明かりが眠りを妨げないのが心地よい。その日もそうだった。廊下を歩いているときにふと窓に自分の影が映った。寝ぼけていたせいもあって当たり前に思ったが、もう一度窓を見返すと映るものなど何もない。考えてみれば光源は月明りなわけだから窓に影が映るわけなどないのだ。としたら何を見たのだろう。窓の影には不思議な生々しさがあった。二階の外に誰かがいるわけも無い。気のせいだろう。始まりはそんなことからだった。以来、誰かに見つめられているような気がしてならない。視覚視野の隅っこに無意識に捉える影を見る。背中をなめ回る視線を感じる。得体の知れないものが四六時中まとわりついて、謙治の神経を逆なでするのである。
小暮家隆が亡くなった日、謙治の家ではささいな出来事があった。体調が悪く昼前に帰ってきた謙治は、その後食事も取らず部屋に入っていった。いつもなら音や気配を感じるものだが、その日に限って物音もしない。きっと寝ているのだろうと佐知子は思っていた。すると、突然何かを床に叩きつけたようなけたたましい音が二階から聞こえてきた。すぐに重く鈍い響きが居間に伝わってくる。怒号に叫び声が続いた。このところ鬱ぎみだった謙治が発作を起したに違いないと、佐知子は急いで階段を駆け上がった。
「お前は…お前は」
そう言う謙治の声が聞こえてきた。「あなた」と佐知子は部屋に飛び込んでいった。ベッドの脇に謙治が立っている。練習用と書類整理のために買ったコンピューターが机の下に落ちていた。「大丈夫」と聞くと「ああ」とげっそりとした顔で答える。しつこく聞き返すと、「うるさい。夢だ、夢」と言ったきりベッドに潜り込む。謙治には昔から癇癪を起こすことがあった。無理強いされると言葉も態度も荒くなってしまう。今がまさにそんな感じだった。佐知子はそっと部屋を出た。散らかったものに手を触れようものなら謙治は怒りにとらわれる。こういうときは自分で片付けるし、自分から下りてくるのを待つにこしたことはない。長年の経験から佐知子は余計なことはしなかった。台風一過と心得ていた。過ぎれば謙治は妙に優しくなった。
それにしても、と佐知子は思った。
医者に連れて行ったほうがいいのかしら。
憔悴した謙治の顔を思い出し、佐知子は逡巡する気持ちのまま居間へと戻った。見る者も居ない中、テレビは三角関係にもつれ苦悩していくヒロインを映し出していた。
そんなことがあってから間もなく、小暮家隆が亡くなったという知らせが溝口家に届いた。JAの職員からの電話だった。佐知子はため息をつくとゆっくりと階段を上がっていった。
葬儀の翌日の朝こと。
孝明と昭夫は恐る恐るお稲荷様に出かけた。
お堂の扉はしっかりと閉められている。昭夫は自分が家にも帰らず、喪服のままの姿で小学校に来ていた記憶がないという。
「まるで夢だよ。このまま夢に引き寄せられたらと思うと最近は眠るのも怖い。夢と現実の区別ができなくなったら、俺たちどうなるんだ」
「馬鹿なこと言うなよ。俺たちだけじゃない。何か理由があるんだ。きっとさ、もっといるんじゃないか。俺たち以外にも」
「家隆とか、亮子とか…」孝明の暗い声は二人の未来を暗示しているようだった。
「死ぬって言うのか。俺はごめんだぜ。それよりさ、一人一人当たってみたら分かるんじゃないか」
「誰にさ?それに何て訊くんだよ。夢が現実になることはありませんかとか。来り返し見る夢はないかとか尋ねて見てはどうだ」
「それよりもほら白州のところへ行ってみよう」
「おばさんは普通だったな。電話番号もすぐに教えてくれたし、何かあったような感じじゃなかった。でも留守なのか何なのか、連絡がつかない。浩市の方は入院だ。心労って言っていたが、本当かどうか」
「白州も浩市さんも生きてんだろうな?」
「何かあったらすぐ分かるだろう」
「だったら何で連絡が取れないんだ」
「そこまでは知るかよ。とにかく出向いてみようぜ」
昭夫の言葉に孝明は沈黙した。
「なあ。このままじゃあだめだろう。お前も分かってんだろう。みんなに当たってみようぜ。俺は一人でも廻るからな」
孝明に背を向けると、昭夫は石段を下り始めた。
「おれも行くよ」孝明がぽつりと言い二人揃って歩き出した。
山道を下りると孝明が川原の土手を見てみたいと言う。二人は徒歩で橋へと向かった。途中身近な友達に連絡を入れた。
家隆は大変だったな…とか。仕事はどうだ…とか。最後に夢のことを訊ねると、何だそれ…と言われる始末。
夢に心当たりがある者は誰もいなかった。
「昭夫。りょうちゃんのことをお前に話した、えーっと…」
「海野か」
「そうそう。その海野、もしかして夢見てるんじゃないか。それに家隆の一番の友達は康夫かな」
「友晴とかもいるぜ」
「確か二人ともこの町にいるよな。直接当たってみようぜ」
そう孝明は言いながら首をひねった。
「でもどうしてなんだろうな、りょうちゃんが死んだなんて信じられねえ。何で死んだんだ」
「交通事故って聞いた。飛び出したとかなんとか。でも孝明さ。お前、亮子のこと好きだったのか。りょうちゃん。りょうちゃんってさ」
「何言ってんだよ。まあ憧れの先輩だったことは確かだかな。みんなそう呼んでいただろう?」
「いや、浩市さんも征爾も名字で呼んでたよ」
「そうだっけ。お前だってそう呼んでいたんじゃないか」
「おれは亮子さんのことりょうちゃんだなんて呼んだことないよ。第一先輩だぜ」
「嘘だって。絶対呼んでるって」
今度は孝明が首をかしげる番だった。
「呼んでないよ…でも…あれ」
孝明は立ち止まった。腕を組むと何かを懸命に思い出そうとしている。
「おい、どうしたんだよ。ここ、着いたぜ」
「りょうちゃん、か?…何だか呼んだ気がしてきた」
「だろう。お前も呼んでたんだよ」
「そうだったかなぁ?」
「亮子以外に誰を呼ぶのさ?」
「でもなぁ」と享は首をかしげる。「信じられないんだよな」
「信じるも、信じないも、葬儀の連絡が来たらどうする」
「どうするって。もちろん…」
「立て続けだなんて何かある。ほんとに事故だけかな?」
「そういえばさ。信号もない道をわき目も振らず飛び出してきたと言ってた局があったな」
「飛び出してきた?」首をひねりながら孝明は指をさした。
「ほらあそこだよ。虫が出て来たとこ…」
夜見たときには、川幅の広さがそのまま亀裂のような闇の広さとなって、川の中へと引き込まれていく恐ろしさがあった。中州の白い砂地の上には石や乗り上げた潅木が見える。
こうして日中見ると北風の寒さだけを感じる。川風が走るのに充分な広さと開放感があって、まれに雪が降ると水墨画のようなめったに見られない景色になる。
「どこだって」
「あそこだよ」
昨日の出来事の描写と説明を何度も繰り返しながら、二人は川原へと降りていった。虫が上った土手にも、這った川原にも、くぼんだ跡や踏みしめられた草の跡など、何一つ残ってはいなかった。現実の出来事のはずなのに夢の欠片すらなかった。
生い茂った草の匂いを川風が運んで流れていく。空は晴れ渡って昨日のことが夢のように思えた。現実であるとはこういうことだ。ひとときの沈黙の後、川を見つめていた享が孝明に向き直った。
「おい孝明。向こうの中州を知っているか」
「ああ。昔ちっちゃなお宮があったとこだろう」
「あそこは星田妙見宮とかいわれているけど、白州の祖母が良く参拝していたらしい。あそこの大岩って空から下りて来たと言われているらしい」
「神話か?何でもありだからな。アメリカのUFО神話みたいだ」
「星に関係しているらしくて、占星術ともつながっている。どうだい」
「何だよ。どうだいって?」
「白州のお祖母ちゃん。やっぱりだよ。孫と良く大岩を上るのを見たことがある。能力を受け継いでいるんだ。そう思わないか?」
「今から会うんだから確かめて見れば」
「そうするよ。今の俺たちには最後の希望だからな」
「俺を巻き込まないで」
孝明はさりげなくそう言った。
「まだ夢も見てないからって自分だけ逃げるつもりか」
「バーカ。確かに夢は見てないけど、虫に追われたんだぞ。あの時の恐怖は忘れられない」
「そうだったな。ごめん!」
「どうやったら止められると思う?」
「意味不明なことなら祈禱だな。対象が分かっている場合は陰陽師のような調伏かな。いっそのこと一気に調伏してくれないかな」
「おい…おい昭夫」話し続ける昭夫の肩を孝明が前後に揺すった。
「あれ人じゃないか」
孝明は鬼滑りの断崖を指差していた。
鬼滑り、それは川が削り取ろうとしても削り取れない頑強な巨大な岩でできており、その岩にぶつかった流れが川底で渦を巻き、フの字にカーブしては九十九折りに流れている。山から下りた鬼が断崖の上から町を眺め、崖を滑り下りて里に来たという逸話が残っている。今では町の観光スポットにもなっていて、見晴台があるのだが…
その見晴台の上に確かに誰かいるようなのである。
見晴台には鉄の柵が取り付けられているが、崖の上をじりじり、じりじりと端に近づいていく人影が見える。
「み・見ろよ。後ろ向きだ」
最初は直行が何を言っているのか分からなかった。じっと見ると格好がおかしい。崖に近づいてはいるものの、近づこうとしているのではない。崖に向ってあとずさっているように見える。
どうやら人影は半袖のシャツを着た年配の男のようである。
男は一人だけで、男の前には誰もいない。それなのに男はじりじりと後ろへ、崖の方へと下がって行く。じりじりと、少しずつ少しずつ。
「あっ」
その時のこと。
男は鉄柵のところまであとずさると、バランスを失った人形のような勢いで後ろにひっくり返り、そのまま崖からおっこちていった。
「ああっ」二人が同時に声を上げた。
男が落ちたというだけではない。
落ちる瞬間に男の身体が急に膨れ上がったのである。
いや膨れ上がったのだろうか?二人は別なものを見ていた。
見たことは確かに見たことに変わりはない。けれども自分たちの目が信じられなかった。というのも、孝明と享は落ちる男に別のものが絡みついているのを目撃したのである。ほんの一瞬だった。その別のものとは、男にしがみついた別の人影だった。そいつは確かに男の胸に覆いかぶさり、男を羽交い絞めにしているように思えた。ただそれはほんの一瞬のことで、一塊りとなった男の身体が川面に水しぶきを上げるのを見ただけだった。
二人は道沿いの家へと駆け出して行った。今見たことが信じられなかった。誰でもいい。家に駆け込んで人に伝えたかったのだ。
それからしばらくして、連絡を受けた警察と緊急車両が来た。その頃には橋にも数台の車が止まり、土手には人だかりができていた。孝明と昭夫が警察の事情徴収を受けている時に男が発見されたという知らせが入った。崖から五十メートルほど下った場所だった。
孝明と直行はことの経緯をありのままに警察に語ったが、ほんの一瞬見えた影のことは口にしなかった。話していいものかどうかもわからなかった。もちろん男以外に発見されたものはない。
捜索班の一人が近づいてくると警察にこう告げた。
「亡くなったのは溝口謙造氏です。もうしばらく捜査は続けますが、乱れたところも無いきれいな遺体でした。落ちて亡くなったのは間違いないでしょう。自殺でしょうか?」
きれいな遺体?首元は。
喉元まで出かかった言葉をこらえ孝明は享の顔を見た。
羽交い絞めにしていた者はいったい…
昨晩の続きを見ているような気がした。
しかし続きならばどうして市議会議員の溝口謙造なんだろう…
互いに見合った顔は青白く、共に生気がなかった。
静河と未知は昼食を簡単に澄ませると二階へと上がった。静河の部屋には積み上げられた古書が見事に散在している。
「ああ~もぅ!アミル堂並みね。古書店でも開くの?類は友を呼ぶで古書で繋がっていたのね」
「ご名答!実はね。かげろう草紙という逃げ水にも似たまぼろしの書籍があってね。その事の巻き込まれて欄美涼さんと知り合ったわけ」
「ふぅーん。詳しくは後で聞かせてもらうとしてちょっと思ったことがある。
今回の広がりを考えると夢から広がっている何だかウイルスみたいね。夢ウイルス」
庭を見ていた未知が突然そう言った。
「ウイルスだって!これはまた刺激的なご意見」
「だってさ。夢から伝染していくみたいだから」
「なるほど。そう言うひらめきはいいねぇ」
「こうも考えたの。由香ちゃんが『お友だち』と言ってたことから、ほら、従兄さんが言ったホムンクルスだっけ。あれ」
「あれは、単純にいうと小人っていう意味だけど。中世のオカルティスト、パラケルススがフラスコで作ったといわれている生命体のことだよ。
詩人のヴァレリーがね、夢とは思い出である、というようないい方をしている。目覚めた後からすれば当たり前のことだけれど、思い出が夢の形をとって現れるということは、思い出がその人を追っかけてきている、と考えることもできる。思い出といったらそれは多種多様だ。生得性ばかりではない。生まれ変わりもあるかもしれない。それに夢の構造も働きも人間の行為と同じところがある。例えば人間だったら、イライラしていると次々に失敗を重ねたりすることがある。冷静だったら一回で終わったかもしれないのに別な問題にすりかわってしまうんだ。すりかわっていくという表現をしたのはね、夢もそうだとは思わないかい。夢の根っこなんて何処にあるかわからない。それは原初的な情動とある種の象徴を用いて、映像やストーリーとして膨らんでいくこととなる。その過程で表象のすり替えが起こるからこそ、人は夢のメッセージに惹かれるんじゃあないかな。そういう意味では、夢の中の自分とは隠れた別人格であるのかもしれない。アーキタイプにつながるものがね。
ただ見ている自分が思うことはそいつは俺の別人格でも、生み出したものでもない。外から来たものなんだよ。外から来て、夢の中に棲み着いて、生まれ出ようとしている。まるでホムンクルスのようにね」
「へぇー。従兄さんが何をどんな風に考えるのか初めて聞いた気がする」
「色々と考えるさ。ホムンクルス=疑似生命体シュミュラクラは、かの『ファウスト』にも出てくるらしい。ある人からの情報だけれどもね。ただね。疑似生命体ということであれば、夢は現実の疑似生命体として捉えることもできる。とすれば、夢を通して擬似生命体が何かを伝えに来ているのではないか?そんな気にもなるね。記憶といっても過ぎ去ったものではない。記憶を持つ者が存在するかぎり、記憶はいつでも感情を伴って還ってくることが出来る。きっと燃えカスのようなものが残っていて、再燃するんだろう。そこが怖いところだ。こうは考えられないだろうか。人はそれぞれ、自分の心理というフラスコで、培養されたホムンクルスを飼っている。隠れた自己という日常の擬似生命体をね。さらに突き詰めればホムンクルスを培養したのは自分だが、その種子を植え付けたのは誰だろう。誰かが虫に培養させたに違いない。ここで未知の言うウイルスだ。他者の夢に干渉できる、それとも培養できる第三者が必要になる。あくまでも感染した者たちが全員似たような悪夢を見るとしたら、悪夢が現実にも作用し始める原因を彼らは持っている。それが何かだ」