頭に季節がある。

膨張していったり、縮んでいったり。昇っていったり、下っていったり。

温度もそう。色の波長もそう。頭がギュッとしめられる圧だってそう。

どれもぼくの春夏秋冬だ。

ぼくの名前はナミト。ウツイナミト。音はそう聴いたが、字はしらない。

小さい頃からナミトと呼ばれてきたらしい。

自分から名前を言う機会も少ないのでときどき忘れる。ぼくをナミトと呼ぶ女性がいるが誰なのかと言うとウツイサワとだけ教えてもらった。身内なのかと思ったら、どうやら幼馴染らしい。ぼくの記憶の中に彼女はいない。けど

五年前から時折記憶の中にサワは姿を現わす。

彼女は怒りっぽいところはあるけど、優しく親切だ。

親兄弟はいるか訊いた。するといるにはいるが、彼女に言わせると苦しくなるから訊かないでということだった。

苦しくなるのは嫌だからもう訊かないし、今のままで十分だ。何も問題はない。

記憶って何だろうと思う。ぼくには分からない。

記憶で出会う自然は今の自然じゃない。今出会う自然はこれから出会う自然でもない。記憶は厄介だ。過去がとても重要で、その過去と繋がっているから生きた今と出会えないのだ。

「教えてもどこかに置き忘れてしまうものね」とサワは言う。

置き忘れるとは記憶はモノということだろうか?

記憶に綴った名前とか関係とか学習とか、覚えておく必要があるのだろうか。

ぼくにはない。そう言ったらサワは言い返してきた。

「ないといっても、ナミトの深層意識に蓄積されて行くんだよ。だから記憶だって今を生きているの。あの樹のようにね。枝葉を伸ばし成長している。そんな風には思えないの」

シンソウイシキ?

「いまを見ればそれがすべてだよ」

だって成長も減退もないのが自然なんだ、サワ。

サワに言われたことは覚えている。特に小言のように言われたことがね。

ナミト転ぶんじゃあないよ…ぼくはよく転ぶ。

川には気をつけるんだよ…川の流れとはなぜがシンクロしてしまう。

鳥についていくんじゃないよ…屋根から飛び出して足を折ったことがある。

サワはぼくを良く見張っていてその都度現われてぼくを注意する。同じ注意も何度となく受けた。サワに注意されるのも叱られるのも嫌いじゃない。

雪どけで少し水かさを増した小川の勢いが鳴っているような気になる。

ぼくの脳には欠陥があるのだという。そのためスーツ姿のお薬さまが定期的に来る。でもね。ぼくはいつも正常だから何が欠陥なのかわからない。

安定しているし困ったこともない。

カレンダーが九月になったある日。

サワさんはぼくにこう言った。

ナミト。旅行へ行きますよ。

何年ぶりかしら。大都会ですよ。

大都会は本当に大きくて電飾とペイントに彩られた蟻塚だった。

凄いわね。街はどんどん進歩している。五年前とは大違い。

サワは嬉しそうだ。声も弾み目もきらきらしている。

都市(まち)の喧騒はぼくの脳髄でプランクトンのように増殖して浮遊する。

街(ここ)では何もかもが流れている。映像が、音響が、時間が、空間すらも。

でも…なんだろう?

…懐かしい匂いがする。

ナミトはふらふらと漂ってくる匂いに引き寄せられた。

 

「ナミト!ナミト!」

サワは人ごみの中で大声で叫んだ。

周辺をどことなく走り回り人々の顔を伺った。どこにもナミトを見つけることは出来ない。気になるビルやイベントなど人が集まるところにも出向いたが見つけられない。どうしよう。あのナミトに行くあてなんてある?

こんなことになるなんて

しばらくその場で待ってみたが現われる気配はなかった。

五年前初めてナミトと出会ったとき、ナミトは眠っていた。

彼は虐められた少年だと聞いた。川に浮かんでいるところを助けられたのだと。

服は着ていなく、全裸で見つかったのだという。名前も住所も年齢も分からないらしいが、そんなことって、と思いながら病院ではなく研究施設に収容されていることが不思議だった。

私の名は控井早羽。これでも医学生だ。それも心療内科の。

数いる学生の中で私が選ばれた理由は聞かされていない。地方の田舎育ちだからだろうか。彼が目覚めたらフレンドリーに幼馴染のように接して欲しいという。なら名前は絶対に必要だ。そう言うと、片山医師は視線を泳がせてモニターで目を止めた。

「ならナミトだ。ナミトでいい。苗字はそうだな、君と同じ内日だ。田舎は血縁でなくとも同じ苗字が多い。いいか、くれぐれも彼に質問したりしないで、質問を受けても同郷の幼馴染として答えること。それがルールだ」

以来ナミトは私の幼馴染だ。年齢はたぶん私の方が上。

そういえばもうひとつルールがあった。彼の服を脱がせないということ。

「今年の夏は暑くなるっていってるよ」

「暑くてもだ。わかったな」

君の査定にも響くことになる。

奇妙な話だったが待遇がいい。余計な詮索はなしで、数少ない決まりを守るだけだなんてまさに好都合だ。受けない手はない。私はその話を受けることにした。

 

ナミトは生まれたての赤ん坊のようだった。身の振り方は知っていたが、なにせ注意散漫、今日作った記憶も安定しない。一か月もすると嫌気がさしてしまった。そんな折ナミトからこんなことを告げられた。

「サワはぼくの幼馴染じゃないでしょ」

ドキリとした。なぜそんなことをいうの?

「どうしてそんなことをいうの?」

「サワのこころに波紋が生まれるから」

「はもん?」

「サワはそのとき記憶を作り出しているんだ。そうじゃない。でも…たとえそうだとしても気にしてないよ。今はまだね」

次の句を告げられなかった私はこうきりかえした。

「幼馴染じゃないとして。だったらナミトは誰ですか?」

「うん。ナミトだね。それが一番分かりやすい。これまで通りだよ。サワの幼馴染でいることはとても気分がいい」

今日も変わりはありません。―私は報告しなかった。

ナミトは一日二回検査を受けている。

気にならない検査を気にし出したのはそんなことがあってからだ。

彼は何者?

すべてが疑わしい。川に浮かんでいたのは事実か。虐めとは単にイジメなのか、暴力なのか。シャツからは見えないが身体に傷跡でもあるのか、それとも痣。一日二回も受ける検査は何のため。私は知らないことだらけだ。

ナミトの前では幼馴染の真似事はもうしなくていい。彼は本当に記憶がないのか。それとも隠しているのか。

ナミトに訊いてみよう。

 

 

     つづく