その奇妙な揺れは火樽井町中心に起こった。揺れは朝方の四時過ぎに起きていたが、潮見市の地震計では僅かな揺れを計測したに過ぎなかった。

火樽井町では町民全員が飛び起きたという。地滑りの音を聴いた者や、鉄筋が曲がるすさまじい音を聴いた者もいる。御山が絶鳴したと叫びながら家を飛び出した者は目を見張って御山を見上げたという。御笠のお山は何事もなかったかのようにそこにあった。

しかしある者は黒い絶壁を見たといい、ある者は大きな屋敷だったと声を上げた。地面がせりあがって山のようだったと言った者もいる。ただ、そのような痕跡はどこにも見つけられなかった。

地震があった。そのことだけは一致していたが、大きな振動も、鉄がしなるような音も、黒い絶壁も、火樽井町以外の近隣の住民からは何一つ上がってこない。体に感じる地震のようなものがあったかもしれない、とだけ伝わった。

人口四百人弱の火樽井町で何が起こったのかは誰にも分からなかった。終いには集団ヒステリーや幻覚、妄想、何らかの集団暗示があったのではないか、という噂が飛び交うようになった。

 

潮見市と三郷市をつなぐ山道の懐に火樽井町はある。直線距離は短いが、御笠山の曲がりくねった山道を抜けるのに一時間以上もかかった。

昭和四八年に獲摩(えずり)トンネルが御笠山を貫通し、三郷市と潮見市の時間距離がぐっと縮まることになる。かかる時間がほぼ三十分になったことで、交通の便は多大な成果をもたらすことになった。三郷の合併もそうなら、潮見の湾を望む観光業、水産業なども盛んになり、市街地再開発が新たに行われることとなる。それによって人口や住宅、しいては市政も潤うことなった。

反対にトンネルによって寂びれた場所もある。火樽井町がそうである。

火樽井町の人口はほぼ半分以下になった。それというのも、火樽井町は御笠山の懐にありながら潮見側の麓の山里としてあり、獲摩トンネルは火樽井の下を通り抜ける計画だった。当然山道は廃れていき、先見の明ある者は火樽井を離れ、市の勧めによって開発のすんだ潮見市に移り住んだ。

残った人びとが変わらず住み続ける火樽井町は残された山里になった。

その火樽井町で地震が起きたである。

獲摩トンネルのせいではないかと一時は騒がれもしたが、トンネルにも異常はみられなかった。それからひと月が過ぎ、見えないところで数々の現象が起きるようになっていた。

 

 

火樽井町の出来事が中村真比古の前に開示されたのは、雲こそあったが良く晴れた暑い日だった。

古村家の庭でのことである。

「うちの父は地質学の研究をしているの。」

古村妃美加はベンチに腰を下ろしてヤマボウシを見上げた。植栽の間には白い小石が敷かれベンチが置いてある。真比古は妃美加の隣に座っている。

「本当はもっと先だったんだけど…」

「わたしが急がせたの。ここに早く住みたくてね。」

向かいの石の上に座る妃夜歌が少し前のめりになる。

「そうそう。パパが困ってた。」

こうして見てみると姉妹だけにどこか似ている。眼鏡だけではない、肌の色もかなり違うが似ている。まるで陰と陽だ。目をつむると良くわかる。

朝の小鳥のような声、そして夜の梢で月に囀る声、そうした違いがわかる。

肌は逆なのにな。真比古は内心笑みがこぼれた。

「火樽井町のこと、知ってる?」

妃夜歌は真比古に関係なく、というかマイペース、悪く言えば独りよがりで話を進めた。真比古は普通の高校生であるはずなのに、この姉妹のペースには現実離れした毒がある。現実を歪める毒だ。

「ひと月前の地震のことかな」

真比古は探りながら進む。

「そう、それ。」

「妃夜歌ったらね。あの地震で死んだなんていうのよ。目の前にいるのは誰だっていうの。」

まただ。また妃夜歌の『変』が始まった。

「あれは地震じゃないの。もっと別のもの。わたしにも見えない。」

「見えないって、妃夜歌の想像でしょ。ママが亡くなってからじゃないの。変なこと言い出したの。そういうのもトラウマっていうらしいよ。」

「いいえ。別な私に起きたこと。たぶんね。」

妃夜歌はすねたように顔をそむけた。

真比古は二人を見ながらこれまでのこうしたやりとりがいつから続けられてきたのだろう、とそれこそ想像した。たとえ人から見れば変な話でも、二人の中では変ではないのだ。姉妹はバランスを取ろうとしているようにさえ見える。

ならばそれを受け取ったら何が見えてくる。真比古は妃夜歌に訊いてみた。

「ここに来るようになったのはいつのこと?」

「一年ほど前かな。来なくてはならないって思ってた。」

「ママが獲摩トンネルで亡くなってからだよ。」

真比古が妃夜歌を見ると、妃夜歌は空を見上げそっと指を折っている。

「半年前のあの寒い日、トンネルを出たところでスリップした。どうして一人であんなとこへ行ったんだろう。」

「あれからなんだよね。」

「ううん。違う。もっと前、まだ始まってなかった頃。」

「えっ、前?もしかして地質学から。」

真比古は両手を差し出し二人の話をさえぎった。

半年から一年前に何があったのか。地質学で何が見つかったのか。起きたことも見つかったものも知りたいことは知りたかったが。

「わかった。でさ。妃夜歌さんはいつから火樽井町に興味があったのかな。なにで知ったのかな。それになぜ火樽井町にだけ起きた地震?に興味があるの?地震といっても何もなかったことは知ってるよね。お母さんが亡くなったことに関係してるとか。どうかな。理由を教えてくれる?」

妃美加も顔を妃夜歌に向けている。

たとえそれが想像の延長だとしても、妃夜歌がそう思ったのは理由があるはず。

「火樽井はわたしじゃない私が住んでたとこ。そして死んだとこ。」

えっ、と紀美加の声が漏れた。はじめて聞いたようだ。

まさか前世の記憶とか…その言葉からなぜか後催眠という言葉が、真比古の脳裏に浮かんできた。

「妃夜歌ったら、また…うそでしょ。」

これ以上耐えられないとでも言うように、妃美加が口をはさみかけたところだった。それをまた制して真比古は質問の矛先を変えた。

「記憶は後から作り変えられることもある。それってさ。記憶なの。それとも記録なの?」

妃夜歌の瞼がくっと開く。

「まだ私の記憶。…でもまた起きるよ。そして記録になる。きみには花がみえたんでしょ。だったらこれから起きることも見えるはず。」

「何が起きるの妃夜歌?」

「もし記憶だったら良くても悪くてもわたしの想像するもの。でも記録だったらわたしは見ることがない。歴史の記述だってそこから想像するものでしょ。だからわたしも想像してみる。想像して語ってみる。最後なの。」

妃夜歌は顔を右に傾けて左の真比古を見る。

「ヒコがいてくれてよかった。ヒコはいろんな世界にいる。だから…」

妃夜歌の瞳に赤い花が見えた。それは傾いた夕日だったのだろうか。

「…紀美加を助けて。わたしは紀美加を救うためにきたんだから。」

それからというもの、堂々巡りになる話を何度もした。

花も見に行った。真比古は今も咲いているといい。妃夜歌は花の目を見ないで、と注意する。妃美加にいたっては何も咲いていないという。

現実と、記憶の現実の間には、確かに想像が多すぎることあるが、単純に事実として捉えられるものもある。真比古にできることは事実と記憶の照合である。想像を想像として、事実を事実として。俯瞰して見ることができれば…それは…真比古の中で現実と折り合いをつける手段となる。

ホラや空想や想像の中にでも現実の記述を読み取っていくために。

考えてみれば古村家という事実もまた想像に思えてくる時がある。

古村家に出会ってからというもの、古村家は真比古のマンネリ化する現実に降り立った夢見鳥なっていた。ならば真比古の現実の中に事実として存在しなければならないものなのだ。

真比古の中では時間を共有しているのだから…

 

時間はないと言った妃夜歌の言葉が、現実になったのはすぐ後のことだった。

妃夜歌と二人、人から見ればデートをしていると思われても仕方がない、そう感じた時のことだが、何のことはない。普通に確かめておきたいことが真比古にはあったからである。

道は砕石を敷いた砂利道から雑草の生えた地面へと変わった。

山道だ。民家の二階の高さまで登っている。

「どこへ…」向かっているのか訊こうとしたが、口に出す前に妃夜歌は言った。

「先にお稲荷さまがあるの。」

「お稲荷様…?こんなとこに。行ったことは?」

「初めて。でもそう感じる。これって記憶?それとも記述?どっちかな。」

いつもの会話だ。ぐっとこらえて真比古はある事実を訊くことにした。

「学校へはいつ登校してくるの?」

妃夜歌は後ろを振り返った。

「とってもいきたいけど、体がもたないの。不登校ってそういうことよ。」

「何それ…どういうこと?」

今度は前を振り向いて、もうすぐよ、と言った後。

「わたしの罪だからよ。」と沈んだ声に変わっている。

「罪?」

「罪って後々になって本当に罪だったと改めて認識されることがあるでしょ。その罪がわたしを焼いている。わたしはまぼろしのようなものよ…」

何と声かけようか迷っていると妃夜歌は明るい声を出した。

「この上のお稲荷さまは宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀ったものかな?それとも鬼夜叉のような吒枳尼天(だきにてん)を祀ったものなのかな?」

「なんて呼ばれてんの。そのお稲荷様?」

「知らない!」

「えーっそれじゃあ推測もできないな。」

妃夜歌はふふっと笑って、推測してみなさいよと真比古にではない誰かに話しかけた。少なくとも真比古はそう感じた。そう感じてその真意を問おうとして顔を上げた。見ると千夜歌はいなかった。きょろきょろと辺りをうかがい、恐る恐る「ひよかさん」と震える声をかけた。辺りに向かって何度もかけた。

「…結界よ…」とどこからか声が聞こえたように思えたが、もうどこにも妃夜歌の姿を見つけることはできなかった。

妃夜歌は消えた。最初からまぼろしだったと思えるほどきれいに消えてなくなった。それでも妃夜歌という存在は事実だった。紀美加が何度も何度も妃夜歌の名を呼び、学校も町も上げて捜索することになるのだから、現実に違いなかった。

それでも妃夜歌はまぼろしのように消えていった。

 

 

 

     つづく