美術館を辞め、私は親戚の経営するうどん屋さんで昼間働くことになった。
レストランで叩き込まれた接客、料理、テーブルマナーの知識は微塵も役に立たない回転率重視の店。
昼食にやってくる土木作業員や工場や会社で働く人々、地元のやくざなんかが昼時にはどっとやってくる。
そんな活気とおかみさんのがなり声、汗の匂い、丼から上る湯気で溢れた店だった。
 


そのおかみさんが父の従姉妹で、私がこの店で働くと決まったときに言われた言葉が今でも忘れられない。
「お前はえらいなあ。勤めも辞めて家に入って。今時の子には中々できないよ。子供は親の面倒を見るために生まれてきたんだよ。お前は自分のやりたいことなんか忘れて父親の面倒だけみていればいいんだよ。それが一番幸せだ。」




昼過ぎに仕事が終わり、買い物をして家に帰る。


掃除、洗濯を済ませ晩御飯の支度をする。

父は仕事で遅くなることがあっても、必ず私のご飯を食べてくれた。
夜は一緒にテレビや映画を見たり、私が遊びに出かけても快く送り出してくれた。



しばらくは平和で、穏やかな時間が続いたが、一ヶ月もするとその緩やかな時の流れは徐々に遠くに追いやられていき、その時の流れに奪われるかのように父の優しさや愛は怠惰と放漫に変わって行った。


私が居るという安心感なのか。

それとも私が居るという孤独なのか。 わからなかった。
 

父は夜や休みに出かける私に悪態をつくようになり、酒を飲んでは卓袱台返しを度々披露していた。

 
仕事帰りに自分の好きなものを買って食べ、悪酔いして私と喧嘩する。



私は不満だった。
私は何のためにここに居るのだろう。

父が何を考えているのかが全くわからなかった。
素面の時は朝仕事に行くときだけで、帰宅して話す時間を設けようとしても既に酔っていて話にならない。

私はいつも、いつも苛立っていた。


しかし、この時点で私と父の中には得体の知れない何かが噴出そうとしていたのだと、今は分かる。
自分で生み出し、自分で鍵を掛けてしまったものが出てくるその時を待っていたのだ。なまえのないかいぶつが、徐々に。でも確実に。
ルカが語った中の虚としたたまれた言葉が頭に引っ掛かって仕方ありません。
魚の骨が喉に引っ掛かったようで。
虚、虚ろとは受け入れる能力。
夜中目が醒めると霞み縢った様な頭が晴れて行くようです。

釈尊入滅後、56億7千万年目に弥勒菩薩がこの世に現れ人々を救うと仏教では説かれています。
それまで人々を導き救うと言う菩薩がお地蔵様です。どんな所でも必ずある野仏とも言われるお地蔵様は日本で最も多い仏様です。

虚空地蔵菩薩。


ルカが語った虚ろ、受け入れる能力。


気が遠くなるどころかほとんど諦め的な時空の中で、お地蔵様は私達衆生を導いてくれます。
測り知る事が出来ない天文学的な器の大きさです。
まさに虚空。


しかし人間とは何と愚かな生物でしょう。
徳川の世から明治に移る時代のなかで保身から「廃仏毀釈」の嵐の中、お地蔵様の首は殆ど切られてしまいました。


今から25年ほど前の記憶、ルカの語りのおかげで蘇りました。

アルコールを抜き食を細くしても、霞みは晴れるものではなかったのに。

頭の中の引き出しが続々と鍵を開けて来る様です。

でも混乱する事はないのです。クリアな状態で何だか満ち溢れそうです。

山ジイは47歳にして覚醒しました。

仏教にキリスト教、これまで様々なものを垣間見て来ましたが、山ジイはルカを通して初めて魂を覚醒させる時間を与えられたと思います。そう理解せざるをえません。

最高の孫である瑠佳をありがとう。

蘇った山ジイより。




長男のルカが喋れるようになったら、必ず山ジイ(山梨のじいじ)と呼んでもらうと言っていた父。
アルコール依存症から糖尿病を患い、追い撃ちをかけるように右手の人差し指と中指を事故で失ってしまった。
馴れない左手で一生懸命に書いたであろうこの手紙は、大学ノートの1ページ目に書かれていた。
後は白紙。
ただ、紅葉が二枚挟まってた。

葬儀が終わり、家を片付けている最中に見つけたこのノート。
手紙として出されぬまま、雑紙に混ざり捨てられる所だった。
しかし何の変哲もないそのノートの表紙を見た時に何故か心に引っかかる何かを感じた。
お陰で今こうして私の手元に。





父が亡くなる2年程前、私は父と二人暮らしだった家を飛び出した。







これは、私が家を出る一年前の話。

私が19歳の時に祖母が亡くなり、ダウン症の叔父は施設へ。姉は仕事の都合で家を出ていたので、
父と私は大きくて底抜けにボロい家に二人で暮らしていた。

私は美術館のレストランに勤めており、休みは月に5、6回。
平均労働時間は15時間と、家には寝に帰るような生活で父とは食事も別々。顔を合わせる時間も殆どなく、我が家はそれはもうひどい散らかり様だった。

祖母を失った悲しみ。叔父と離れ離れに暮らす寂しさ、不安。
そんなことを忘れてしまうほど私は忙しい日々を過ごしていた。



ある日。久々に仕事が定時で終わり、料理でも作ろうかと買い物を済ませ家に帰ると、掃除など殆どしたことのない父が掃除機をかけていた。



「おう。早かったな。お前少しは片付けろよな~。」


笑顔で話す父。
こんな顔を見たのは一体どれくらい前だろう。
私は何故か無性に泣きたくなったが、それをこらえて台所へ行き、ビールを飲みながら掃除を始めた。


途中で父がQUEENを流し、掃除の最中何度か私の方を見てウィンクをした。



私はご飯を炊き、味噌汁と肉じゃがを作った。

夕食をテーブルに並べ、まだ綺麗とは到底言えない居間で私たちはご飯を食べ、笑いながら二人で泣いた。たくさんたくさん泣いた。言葉はなく、ただお互いの頬をつたう涙を拭いながら温かなご飯を食べ、笑った。



「パパ。私仕事辞めるよ。辞めて、昼間働きながら家事をする。」

「いいのか?お前仕事楽しいだろう。」

「いいの。この時間を大切に出来るようになりたいし、大切なことをもう忘れたくない。」

「そうか、悪いな。本当言うと俺は、仕事から帰ってお前がおかえりと言ってくれることが一番嬉しいんだ。」



私たちはたくさん笑った。たくさんたくさん笑った。
父は三人兄弟の長男だった。

次男は先天性のダウン症で、父はいつも伯父をいじめる同級生を蹴散らしていた。
父はいつも勝ち気な野性児だったが、読書も大好きな一風変わった少年だった。
三男は、母親の愛情を一心に受けて甘やかされて育った。陽気で、肥満体で、皆に好かれていた。


父は母親からの愛を受けたくて、弟の世話をしたり小学生時代から新聞配達を始めてお金を家に入れていた。しかし、母親の愛を肌で感じたことはなかった。


父は昔からかなりの色男で、私は幼い頃に屋根裏部屋でゴミ袋に入った父宛ての大量のラブレターを見つけたことがある。


大麻とロック、アルコールと読書を愛していた。



そんな父も23歳で3つ年上の母と結婚した。



祖母は嫁入りした母をいじめ抜いた。女児をもうける事が出来なかった祖母は、孫である私たちを独占したかったのだろう。


そして、私が3歳になる前に二人は離婚した。裁判沙汰にまでなったが、結局私達姉妹は父に引き取られることになった。

その時のことを父は生前「嫁は探せばいくらでもいるが、親は独りきりだからな。」
と言っていた。その健気さに私は心がいたんだ。父と祖母の仲睦まじい姿を見たことがなかったからだ。



父と祖母の関係は次第に悪化していき、喧嘩が絶えなかった。


祖母は私たち姉妹をとても可愛がってくれたが、酒と金にだらし無く、掃除も苦手だったらしく家はいつも散らかっていた。そして、その血は三男に受け継がれた。


父は日中家具屋として汗みず垂らし、夜はスナックのチーフとして働く。
私たちの為に、一生懸命だった。
殆ど家にはいなかったが、短い時間でも私達にはたくさんの愛情を注いでくれた。

父はある日、必死に稼いだ金を、祖母と三男の伯父が使いこんでいた事を知る。

父の怒りは頂点に達し、伯父を叩きのめし縁を切り、祖母にも手をあげた。

父はその頃から次第に酒の量が増えるようになっていった。

父の頑張っても頑張っても得られない母親からの愛が、いつしか私たち娘への執着に変わっていったのだと思う。埋められない隙間も酒で満たし、辛い経験を飲み干し忘れ去りたかったのだ。

父は不器用でキチガイ地味ていたが、心根の優しい人間だった。