世の中のことごとくを「対立と闘争」という色眼鏡で見ようとするから、間違えるのです。
そもそも、そういう「レッテルを貼って、相手を決めつけ、中傷し、対立を煽る」ということ自体が、西欧的共産主義にかぶれて、たいせつな日本的心を失ってしまっている。
実に哀れなことです。

国を守るということは、諸外国ならいざしらず、わたしたちの国では、私達自身の暮らしを守るということです。
諸外国では、国を守るという言葉は、「国にいる一部の支配層の人たちの利権を守る(=庶民の暮らしを守るわけではない)」という言葉と同義です。

現実問題として、日本では、社長さんと平社員の年収は、古い名門の企業ならせいぜい10倍です。
社員が350万なら、社長は3500万円くらい。
これが外国人が経営者となっているたとえば日産ですと、社長の給料は2億9千万円です。
100倍近いひらきになります。
さらに在日系の会社ですと、◯◯まさよし氏など、申告所得だけで94億円です。いったい、一般社員の何倍なのでしょうか。

このことは驚くには値しないことで、事業に成功し、社長となれば、まさにウシハク者として世に君臨し、その富は個人が独占する。まさにそれが世界ではあたりまえのことです。
日本にある在日系の某大手宗教団体のトップは、個人の年収が3兆円を超えるといいます。
この場合、末端の信者は、お金を教団に払っても、教団からお金をもらうことはありません。

ウシハク者が君臨し、民衆を支配し独占し収奪する。
それがあたりまえの国家や民族であれば、戦いは、そのごく一部のウシハク者たちのためだけに、若者が駆り出され、戦場に向かわせられるというものでしかありません。
傭兵なら多少良い給料がもらえるし、そもそも自分の意思で兵士になっているわけですから、死ぬことも自分持ちかもしれません。
けれど、一部のウシハク利権者のために、国家が徴兵をするとなると、これはもう、農産物や財を支配層に収奪されるというだけでなく、命まで収奪されるという意味にしかなりません。

そういう国が、満州から樺太、千島列島、朝鮮半島、そして日本を狙って南下し、圧力をかけ、挑発し続けていたのです。
あまりにも日本とは国力が違う。
だから日本はできるだけ戦いを避けようとして、あらゆる努力を重ねてきました。
けれど、どうにもならない。

日本はシラス国です。
天皇を中心に君民一体となり、民こそがおおみたからとされる国柄です。
一部の利権者が、破格の贅沢をし、他の民衆がそのために収奪され、使役されるという国柄ではありません。
ひとりひとりが主役であり、お金持ちでも貧乏人でも、誰もが人として対等であることを希求した世界最古の国家であり、国そのものがひとつの家族となった国です。

その国が滅ぼされ、ウシハク国の支配下となれば、ありとあらゆる不正や不条理が日本で行われることになります。
日本を貶めることが日常となり、日本人だからということで殺され、暴行され、強姦される。それが常態化してしまう。そのことは世界の歴史にもあきらかです。
だからこそ、日本は20倍の国力を持つロシアと、正々堂々の戦いに臨まなければならなくなったのです。
そしてそのことは、当時の日本国民の総意でした。

言論人というのは、比較的個性がつよいというか、我が強くて、日頃は仲の悪い者も多いのですけれど、日露戦争の開戦のときは、不思議と全員一致で、乾坤一擲、断固戦うべし、というのが、日本の論調でした。
あたりまえです。
当時の日本は、現代の日本以上に東亜の諸国に人々が出ていたし、そこで暮らしていました。
満州や樺太が襲撃されるということは、そのまま隣の家が襲撃されるということと同じことだという、実感を当時の日本人は共有していたのです。
まさにシラス国だからです。

与謝野晶子の『君死にたまふこと勿れ』の全文を掲載します。

そのうしろに、同じく与謝野晶子の『無題』とされた歌を掲載します。昭和2年(1927)の歌です。
実に素晴らしい歌だと思います。
一読すれば、きっと何かを感じていただけると思います。
ところが、この『無題』の歌、ネットなどでググっていただくとわかりますが、そのどれにも「ぞっとする」とか「天皇制を容認する尻すぼみ」とか、批判的、否定的なレッテルを貼った上での紹介になっています。
そんな紹介など不要です。
歌は、歌そのもので感じればよいことだからです。

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