静寂が続きました。
そして潜望鏡を覗く橋本艦長の声が響きました。
「命中!」

一発目は一番砲塔の真下に命中。
二発目は二番砲塔に命中。
三発目は艦橋付近に命中。

光景を第二潜望鏡(夜間航海用)で視認した艦長は、他の乗員にも潜望鏡を覗かせて確認しました。
しばらくすると、三発の衝撃波が届きました。

次に発射する魚雷装填のために、伊五八は、ふたたび潜航しました。
装填を終えて、潜望鏡深度に浮上しました。
敵艦の姿は既に洋上にありませんでした。
この間、わずか十二分のできごとでした。

橋本艦長は、艦隊司令部に打電を命じました。
「ワレ伊五八潜、
 ヤップ島北西方
 北緯十二度二分東経百三十四度四十八分ニオイテ、
 アイダホ型戦艦ヲ撃沈ス」

伊号潜水艦が撃沈したのは、米国の重巡洋艦インディアナポリスでした。
そしてこの艦は、日本に投下された二発の原爆を米国から運んだ艦でした。

大東亜戦争で、日本が撃沈した米軍艦船は、三百五十隻以上にのぼります。
その戦績は、驚異的強さを誇った初戦の時期だけでなく、ミッドウエーで敗れ、海軍力を大幅に低下させ、制海権すらなくなった中ですら、継続して戦績を挙げています。
そして、米軍の攻撃対象がもっぱら日本の輸送船だったのに対し、日本の艦船の攻撃対象は、必ず、軍船に向けられていました。
日本は、敗色濃くなった戦場ですら、国際法規を遵守して戦っていたのです。

戦後生まれのわたしたちは、旧日本軍は非科学的で非人道的であったように教えられてきました。
米国の勝利は正義と民主主義の勝利であったように語られてきました。
そして日本側の激戦に関する報告や体験談はほとんど語られず、生き抜いた元軍人たちの証言は、反日的、反国家的な偏向を持つ者のものだけが紹介され、真剣に国のために命を捧げようとした人々の話は、まるでスルーされてきました。


パラオのアンガウル島で激戦を息抜き、戦後渋谷で書店を経営された舩坂弘さんが書いた本に、次の記述があります。
「われわれとともに戦い散っていった戦友たちを思うとき、
 私はこの師団に所属したことを誇りに思わないわけにはゆかない。
 戦後、軍隊に対する一方的な批判や、
 あたかも太平洋戦争の犠牲者を犬死となすような論がしきりになされた。
 だが、それらはいずれも軍隊において
 落伍者であった者のするインテリ兵の時流に乗った発言であって、
 当時の私たち青年は純真素朴に
 『故国のために死す』ことを本望として
 敵軍に突入していったのである。」

落伍者であったインテリ兵の「時流に乗った発言」は、戦後のGHQによる宣撫工作や、まともな人の公職追放などを受け、「単なる非常識」の「腰ぬけチキン」の発言が、普通ならあり得ない市民権を得たのです。
それが戦後の日本でした。

そのため、たとえば特攻にしても、「保守」を自称している方々ですら、
「初期の頃の特攻は効果があったけれど、
 後期はほとんど撃墜されて効果がなかった」
と信じている人がいたりもします。

しかし米国公文書館が時限切れで公開したウォーダイヤリー(戦闘記録)によると、特攻攻撃によって、なんと六割近くの艦船が突入被害を受けていると書かれています。
当時の米軍は、艦に被害を受けても、その場で沈まない限り「大破」と発表しています。
けれど、米軍のウォーダイヤリーによると、「大破」と発表された艦のほとんどすべてが、結果として沈没、または使用不能艦となっていることが確認されています。
ウソも隠しもない、これが事実です。

日本は、米国が原爆を完成させるより前に、原爆を完成させていました。
名前を「新型爆弾」といいました。
新型爆弾は、すでに使用できる段階まで開発が進んでいました。

軍の上層部は、この新型爆弾をもって、米国に乾坤一擲の大勝負を挑みたいと昭和天皇に上奏しました。
記録に残っている史実です。

そのとき陛下は、次のようにおおせられました。
「その新型爆弾によって、たとえ我が国の戦況が有利になることがあったとしても、そのために、相互が新型爆弾の投下合戦にいたり、結果、何百万もの無辜の民が死ぬようなことになるとしたら、朕はご先祖に申し訳がたたない。」
陛下はそのように述べられ、原爆の製造の禁止を、その場で取り決められています。

ですから陛下も日本国政府も、原爆が投下されたとき、それが新型爆弾(原子爆弾)だとすぐにわかりました。
ですからスイスを通じて、米国政府に以下の抗議文を出しています。