〇幕末明治初年に奥羽越列藩同盟の武器商人として活躍したヘンリースネルとエドワルドスネルの兄弟がいたことはあまり知られていない。慶応四年六月の新潟港陥落後にスネルはどこへ行ったのかわからなかったのですが、消息の描かれた本を見つけたので、書いていきます。

〇スネル兄弟はどちらも新潟港へ来ているのですが、兄のヘンリーは会津藩お抱えになって、武士の服装で活躍したので、会津のスネル、弟の江戸ナルドは越後で活躍したので越後のスネルと私は区別しています。この兄弟はよく史書に出てくるのですが、どちらのスネルなのか混同してしまう例が多くあります。

〇一部旧漢字や言い回しを現代口語に直しています。

 

〇渋沢栄一が一族や門弟のために口述した「雨夜譚」から渋沢が徳川民部公子とともに欧州留学に出ていたところ、徳川慶喜の大政奉還で帰国命令が出て、上海まで戻った時の場面にスネルが出ています。

 

●上海へ来てみると、同所の旅館にドイツ人のスネールと長野慶次郎とが止宿していた。このスネールという人は戦争の間会津藩に招されていたが、落城の前に兵器が足らぬというので、鉄砲を買いに来たのであって、長野はその通弁として同行してきていることがわかった。

 

〇長野慶次郎 桂次郎。1843-1917 万延元年遣米使節団通訳見習い。

 

●自分は前々から長野とは知人であった人ゆえ、民部公子が上海に着して、自分も随従しているということを聞きこんですぐにスネールと同道して面会を乞うてきたから、会ってみると長野のいうには薩長などが官軍と唱えて武威を振るって幕府に当たるから、会津は盟主となって会津が盟主となって       奥羽諸侯と合従してこれに敵対しているけれど、武器が不足で十分のことができぬから、武器購入のために当地へきたのであるという。

 

●自分が長野に問うには会津はすでに落城したということを香港で聞いているが事実であるかと質問してみたところが、長野がいうにはその確証はまだ得ぬ。しかしながら、たとえ落城したからといっても残党が多くあるから是非一度は挽回せんければならぬ。また、このスネール氏などは外国人であるが実に力を入れておる。

 

●ついては、相談があるが、すなわち民部公子進退で、今度横浜にお帰りにならずに、ここから直に函館にお連れ申して、函館に雄拠しておる海軍の首領としたならば、一体の軍気も大いに張るであろう。

 

〇民部公子を函館共和国の首領にして外交的な独立を計ろうとしたのです。後に榎本武揚も同様の行動をとります。

 

●是非ともこのことに同意あるようにしたいと、熱心に勧告せられたから、それは以ての外の事で、さような事はできぬ。自分において公子をしてさような危険な地へ赴かせることははなはだ好まぬといって、断然拒絶したことがありました。

 

〇将軍家は大政奉還をして恭順の意を示しているのに、実弟の民部公子が朝敵の立場に立つことは渋沢でなくても許されることではなかったといえます。

 

〇明治元年の夏ごろに上海に乗り込んでいたスネルはどちらのスネルなのかまだはっきりしません。