〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載

せます。

 

●明治十四年二月十八日。聖上武州八王子駅へ行幸。翌十九日宇津貫村御殿峠において、ウサギ狩りの御催しあらせられ、居士もまた供奉しておられた。

 

●時、たまたま一匹のウサギが狩り立てられて逃げ来たり。突然居士に跳びついたから居士はこれを抱きとめ、聖上に献じられた。聖上ことのほか、この光景の美にして優雅なるを愛されて、その後永く宮中で御飼育された。

 

●ちなみにこの行幸に付き、居士の忠誠の片時も途切れることのないことを証明する一話があるが、その次第は至尊にかかわることなので今これを記することを遠慮する。

 

〇江川卓の「たかされ」youtube 掛布雅之との対談

〇江川は阪神ファンの私としては長年嫌いな選手だったのですが、この対談で見方が変わったところがあります。

 

〇江川は子供のころから六大学の早慶戦にあこがれ、両校の野球部推薦枠の高校をさがして栃木県在住なので作新学院に入った。

 

〇作新の進学コースを選び、7時間まで授業があった。そのため、一般の野球部部員より遅れて練習に参加しなければならなかった。先輩からいじめを受けたらしい。

 

〇慶応のセレクションを受けられることになったが、慶応からなぜか「日本史」で受けるように言われて、自分は「地理」を取っていて日本史はほとんどわからなかった。

 

〇江川は予備校の先生に特別に指導を依頼して予備校が終わった時間に個人特訓を受けていた。慶応のセレクションを受けた者を対象に入試の特訓合宿があり、江川はそれに参加するも不合格。法政のたしか二部に入ったと思います。

 

〇江川の親戚は自営業の家庭が多く、関東にいたので関西の球団では困るといわれた。自分ではヤクルト、大洋、日本ハムに指名されれば、入団しただろうと話しました。

 

〇江川は私と同年代なので、この話を聞いて苦労したんだなあと見方を変えました。

 

〇あと、掛布とのかかわりで印象に残った話があります。二人とも意識しあっていたので、江川は一球目はスローカーブを投げることが多かったのですが、掛布はこのスローカーブをねらったことは一度もないといいます。相手の直球を打つことに全力をつくしたそうです。

 

〇巨人戦で江川は監督から、掛布を敬遠せよ。といわれますが、なかなか応じません。江川は球場のお客は二人の対戦を楽しみに見に来ているのにどうして敬遠するのかといったようです。

 

〇名投手と強打者の勝負としてふさわしい話です。これも野茂対清原あたりを最後にプロ野球から消えてしまいました。

 

〇江川の見方が変わった一瞬です。しかし、空白の一日などと主張した巨人の自分勝手なやり方は今でも許すことはできません。