〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。
〇現代口語文に近い形になおしました。
〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。
●居士慶応三年戊辰三月、駿府総督の宮に赴かれる前夜、いずこよりか大酔して帰宅し。茶づけがあれば早く早くと玄関より呼んで入られた。夫人はさっそく膳部を進められた。
●時に益満休之助氏が来ていたので、居士は直ちに別室で益満氏と内談し、それより膳部に向かって如何にもうまそうに一升余の茶づけを平らげ、やがて羽織袴に着替え、ちょっと行ってくるぞといって益満氏と一緒に出られた。
●そして、翌日になって夫人は、居士が大事な使いに出たことを知り、大いに心配して神仏に誓いを立てひたすらその成功を祈られた。
〇単身、総督の宮の本営に益満と乗り込んだことを指すのであろう。
●ちなみに益満休之助は薩摩藩の士で、早く脱藩して江戸に来て、居士とともに尊王攘夷党を起こし、もっぱら朝幕一致のために奔走した。そして天性剛毅絶倫で、慶応戊辰五月十五日官軍が東叡山攻撃の時、本郷切通坂上において流れ玉に当たって立ちながら絶命していたそうである。
〇幕府は徳川慶喜を頂点として勤皇思想が強かったので、幕府の方針は恭順になったのですが、もし、小栗上野等の主戦派が実権を握っていたら、外国の援助を得て、朝廷を破りフランスやドイツが日本国内に租界を持っていた可能性があります。
〇勝海舟や西周などが、慶喜に外国の資金援助を受けることの危険性を講義したようです。現代でも中華人民共和国の後進国への経済援助を見るとその下心が透けて見えます。
〇死せる光圀、生ける慶喜を走らす。ということでしょうか。