〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。

 

〇現代口語文に近い形になおしました。

〇鉄舟本の多くが引用している部分がありますがそのまま載せます。

 

●幕府への建白書草案 以下皆清川八郎氏筆跡

 

●一、尊攘の大義を御勇断の上は、皇城の警護が第一ですから、去年の秋から親兵を差し上げるよう朝廷から御命令がありました。幕府においていまだ御決裁なく、朝廷は申すに及ばず、列藩すこぶる不平の様子が見えております。

 

●速やかに御決断されますように、もっとも、一万石より一人ずつ忠義烈の士を選ぶことができれば、当然のことと思いますが、これまで国事に携わってきた藩はその人材は足りるでしょうが、僻地、遠方の藩はその人材は容易に備えることはできない。

 

●たとえ選抜募集できても、各国の風習が異なるために、相当の人物が総裁にならなければかえって紛争となることと思います。何分急務のことですから、列藩に命じられても、幕府において人数を差し上げても、会津候より人数を差し上げても、三か条の御伺いの上、朝廷において御安心いただくよう御手配下されますように思います。これは今日の大急務と存じます。

 

〇これは草稿で実際に提出されたのかは不明です。清川存命の時ですから1860年あたりと思います。この時点で御親兵の構想があったことがわかります。

 

〇将軍家の警護については一言も触れず尊攘一筋ですから、幕府をあるいはだましたといわれても仕方がありません。