僕は、最近テレビですごいといわれているダンスが、いいか悪いかを判断するだけの、評価軸を持ちあわせていません。

若者についていけなくなった中年の哀れな嘆きかもしれませんね。

 

いろんな角度から見てみても、今一つよくわからない。

指先や腕の動き、足運びや、体裁きから何かを読み取ろうとしても、うまく理解できません。

皆は、ダンスが伝えたいものが何か分かっているから、あんなに盛り上がっているのだろうけれど、ものすごい疎外感を覚えます。

 

TV番組のダンスコンテストですごいと評価されている人たちのダンスを見ても、僕は幼稚なことしか受け取れない。

 

「ぼくたちがかんがえた さいきょうのだんすは これ!」

 

くらいしか、理解できないんですよ。

技術はあるのだろうけれど、精神性とか、噴出する情動とか、誰かに伝えたい切実な思いや考えを、僕はうまくくみ取ることができませんでした。

 

審査員の感想から何かわかると思ったんですが、

「やばい」「すごい」「感動した」

くらいしかなくって、いったい何を受け取っているのか訳が分かりません。

 

 

劇場でダンスを本格的な見たこともあって、その時は、何を表現しているのか伝わるものがあったんですよ。

音楽があればより分かりやすかったのだけれど、音楽がなくても十分理解できた。

その時のダンスは、僕の解釈では、地球ができてから人の営みをダンスで表現していたと思う。

 

知的障がい者が、世の中の常識に立ち向かうときが、まさにこのような感覚なのかもしれない。

みんなわかっているし、盛り上がっているし、楽しんでいるのに、自分だけは蚊帳の外みたいな。

僕がダンスの良さをいくら説明されても、本質的な所で理解ができないように、知的障がい者が、いわゆる健常者からいろいろなことを説明されたりしても、やっぱりよくわかっていないんだろうと思う。

「分かっているんだろうな」と思われることはできても、実際にはわかっていないことが多いのだと思う。

どこがどのようにわかっていないのかっていう説明は、その物事がわかっていないとなかなかできないことだから。

 

知的障がい者も、本人の判断が大事というけれど、判断するための評価軸を持ち合わせていないことだってたくさんある。

その物事に対して、どれだけのことを理解していて、どのように評価することができて、どんなふうに自分がかかわっていくのか、そういうことに対して自信をもってできる人はそんなにいないだろう。

いわゆる健常者だって、そうだ。

 

内輪受けというか、自分たちだけで通じる何かは、連帯感や結束を強めるのに役立つけれど、その空気や雰囲気やそこの常識を受け入れられないと、息苦しい思いをすることになる。

ダンスコンテストみたいな小さな社会であればいいのだけれど、この日本社会とか、政治の世界とか、福祉業界とか、経済界なんていう大きな社会でこのようなことが起こると、大変なことになっちゃう。困ってくる人がたくさん出てきちゃう。

 

福祉業界の常識は、一般社会とは異なるといわれているのだけれど、そこにはやっぱり困っちゃう人が出てきているってことで。

完全に理解されなくっちゃいけないとは思わないけれど、理解されない部分もあるのだという意識は大事だと思います。

そうじゃなければ、そのうちガラパゴス化して、伏魔殿なんて言われちゃうかもしれません。