障がいって、簡単に言えば、それを持ってると困っちゃう状態にあるっていうこと。どういう部分で困っちゃうのかということで、知的、精神、身体に分けられているわけです。
けど、それって、人と関わらないとわかんないことでもありますよね。
だから、「世の中で生きていくときに困っちゃったら障がい者と認められる」みたいなところがある。あくまで、「認められる」ものだから、自分で勝手に主張できるものじゃあないんですよ。そのために認定制度とか、手帳の交付があったりするわけです。
今回は、身体障がいに絞って書いていきます
障がい者は特別なものという印象があるみたいですけど、眼鏡をかけてたら障がい者っていう考え方もあるんですよ。
もし眼鏡が無かったら、正常にものを見ることができない。
日常生活に影響が出る人もいるだろうし、逆に嫌いな人の顔を見なくて済むからうれしいという人がいるかもしれない。
けれど、運転免許を取ることができなかったら生活するのも難しくなっちゃう。
理屈で言えば、機能を十全に発揮できないのだから、身体的な障がいになってるといえちゃうのです。
じゃあ、それが何で障がい者じゃないのかといえば、目が悪いことに本人が気づいていないとか、目が悪いままでも生活できちゃってたこともあるだろうし、眼鏡が手軽に買えるようになったっていうのもある。
「道具によって手軽に矯正できるんだったら、世の中で生きていくのに困ってしまう障がい者とは言えないよね」
というような変遷を得たのだと思う。
というより、「眼鏡があったら障がい者じゃないじゃん」と世の中が考えたということだろう。
目が悪い人はたくさんいるし、加齢に伴って目は悪くなるものだし、手軽で安価に矯正しやすかったということもあって、よく目にするものでもあったし、誰にとっても当たり前の身近な日常となっていたのだろう。
「日常の一つなのだから、障がい者にはならないよね」ということです
けど、極端に目が悪ければ、障害者ってことになることもある。
全盲だったら、間違いなく障がい者だろう。だって見えないんだから、生活に困っちゃうのは考えなくてもわかる。
じゃあ、1割だけ見えるならどうだろう?まだらに見える場合もあるだろうし、特定の場所しか見えない場合もあるだろう。全体的にぼんやりとしている場合もあるだろう。
不公平がないように、全ての人が納得できる形ではないにしろ、日常生活をおくるときにどれだけ困るか、言い換えれば、その障がいが日常そのものであるかどうかが基準になってくるのだと思う。
ということは、義手や義足の身体障がい者が、義手や義足を眼鏡と同程度だと思えるような世の中になったら、身体障がい者ではなくなるわけです。
寺沢武一の漫画「コブラ」の主人公は、片腕が義手(サイコガンという武器になったりする)ですが、健常者とまったく同じように動かします。彼は障がい者でしょうか?
士郎正宗の漫画「攻殻機動隊」では、ざっくりといえば、体を機械化した人が出てくるわけです。一部である人もいるし、全部である人もいる。生身の部分が全くなくても、人間として生活している人もいる。
むしろ、生身の体を持っている方が、その世の中で生きていくには「障がい者」であったりもします。こうなってくると、障がい者とは何か根本的なところが揺らいできますよね。
もう、生きていくのに不都合なければ、障がい者じゃないって感じになると思います。
身体障がいって、技術の進歩によって克服できちゃうところがあるから、パラリンピックの一流選手を見ていると「どこが障がいなの?」と思うこともあるし、いわゆる健常者よりも義足の選手の方がいいタイムで走れるのを見たりすると、障がいとは何かがよくわからなくなります。
別に、障がい者は、いわゆる健常者より劣っていなければならないなんてことは思わないのだけれど、
「それだけできて、社会生活をおくるときに困るってホント?」
と思ってしまうんですよ。
僕は知的障がい者を主に支援していますけど、それだけに、身体障がい者の自由さというか、困らなさも見えてしまって、公平な基準って何だろうと思ってしまうのです。身体障がいを軽く見るわけではないのだけれど、知的障がいと比べると、落差があるので。
生きていくのに困るっていう意味では、僕なんかもめっちゃ困ってますよ。国の制度とか考え方とか税金とかもろもろ、困っちゃってます。人生の障がい者なんで、国に助けてほしいんですけど、そういう障がいを作っているのが国だから、何ともなんないんだろうねー。
色々な考え方があるのは承知していますが、みんなが笑って暮らせるっていうのが一番なので、ちょうどいい着地点を探して変わっていかなければならないんだろうなって思います。そういう意味でも、日本の技術に期待しています。