誰かを好きになって、恋愛をして、結婚する。

そうして、二人の子供を産み育てていく。

 

現在、まだ一般的には、ロマンチックラブイデオロギーに基づいた恋愛観というか人生観によって、婚姻がなされるといっていいと思います。

結婚に至る過程は様々ですが、結婚してこどもができて、幸せな家庭を作って、自分が受け取ってきたものを次の世代に伝えていくことが幸せの形とされています。

 

婚姻するかどうかとか、婚姻の形は様々になっており、恋愛をした結果、二人の愛の形がどのようなものになるかは、二人の考え方にもよるのでしょうけれど、とても素敵なことだと思います。

制度の問題はいろいろあるものの、信じられる人と一緒にいられるのは素敵なことだと、思います。

 

 

今回は、知的障がい者同士が恋をして結婚することになる場合を考ええてみたいと思います。

 

多くの場合、知的障がいを持つ者同士は、そんなに深く考えているわけじゃあない。考えるほどの条件がないと言い換えた方がいいかもしれない。普段の社会生活を見てみれば、彼ら知的障がい者が、社会とかかわっている部分は非常に限定されているからだ。

実際に、結婚したいと相談してきた利用者がいて、「好きだから一緒になりたい。」とのことであったが、それ以上の何かを希望しているわけではなかった。

 

結婚は本人の自由というものの、家と家とがつながることで、何の接点もなかった家同士が親戚になってしまう。

本人たちの意思がどうあれ、親戚同士になった家はそれなりの交流をすることになる。

交流することがなくたって、相続の問題や、冠婚葬祭など、することはたくさんあるのだ。

そして、親族同士の話し合いで、どちらの親も思うわけです「こんなやつに、うちの子供は任せられない。」

それはそうでしょう。一般的に考えて、支援を受けなければ生きていくのが難しい人に、大事な人を任せるのって、なかなかできない。

できれば、ちゃんと守ってくれる頼りがいのある人に任せたいと思うのが親心だ。

 

それは、結婚する以上、必ずついて回る問題です。

一般的には、結婚したら独立し、新しい住処で暮らしていくことになりますよね。

自立したものが結婚し、夫婦となったら、誰かを支えたり守ったりする側に回るというのが、想定されている生き方です。

 

知的障がい者はどうでしょう?

誰かを支えたり守ったりする側に回るのは難しいと思います。精神や身体の障がいを持っていたりしたら、なおさらです。

本人たちは幸せかもしれないけれど、支援する側は、何かが起こるたびに振り回されることになる。

 

まずは結婚に至るまでのもろもろの問題があるし、結婚式の問題があるし、新婚旅行だって考えるだろう。親族との連絡調整や行政手続き、新居で生活する場合の問題解決、引っ越しや福祉サービスとの調整、妊娠でもしようものなら、つきっきりにならなければならなくなったりする。

 

親が亡くなった後も大変だ。

結婚してしまったら伴侶のことも考えなければならなくなる。財産はどうするのか、相続はどうするのか、離婚したらどうするのか、子供ができたら?離婚して子供を引き取ることになったら?お墓だってどうなるかわからない。それに、親がいなくなるってことは、頼ったり相談したりできる相手がいなくなるってことでもあるのだ。

 

いわゆる健常者だって、いろんなことから身を守りながら生きていくのは大変なのだから、社会的弱者である知的障がい者が生きていくのはなおさら大変だと思う。

 

結婚はしようと思えば誰だってできるし、手続きそのものは簡単なものだ。けれど、その意味は重く、責任も重い。

 

知的障がい者同士が結婚するのは、喜ばしいことだと思うのだけれど、関わる(あるいは巻き込まれる)人間の負担や不安や不満がものすごく大きいのだ。

 

僕だって、自分の子供が知的障がいを持っていて、知的障がい者と結婚したいといってきたら反対する。

色々なことをしたいと思うのは自由だし、活動するのはいいことだけれど、責任が取れる範囲にするべきだと思っている。

そうでなければただのわがままになってしまう。

 

自分で自分のケツをふくっていうのは、最低限必要な人としての在り方だと思う。

それができない奴は、他人の人生を背負うべきではないし、支えあうこともできないだろう。

知的障がい者同士の結婚もそうあるべきだし、そうでなければ、幸せになることはできないのだと思う。

 

共に幸せになるためには、それだけの力が必要になってくるのだから