吐露。デトックス。
自分は強い人間。そうずっと思っていた。少なくとも大学2年生までは。
野球の辛い練習にも耐え、受験勉強も人一倍努力した。
これからの人生ずっと強い気持ちを持ち続けることが出来る。
そう思っていた。
それがこんなにも弱いとは!!!
与えられる試練に耐える能力はあったのかもしれない。
しかし、いざ自分の自由に努力する課題を決め誰からの制約も期待もかけられない状況におかれると何も出来ない、
いや違う。何もしない自分がいた。
大学生活はとにかく自由だ。勉強するにしてもいいし、サークルに精を出してもいいし、恋愛に燃えてもいい。
やることのある奴はやりたいことのある奴はそれに没頭できるいい環境なのかもしれない。
しかし、やるべきことを与えられないと出来ない奴には向いてない。何をすればいいのかわからないのだ。
大学生活何がしたい?
この問いに対する明確な答え、いや漠然とした答えさえも持ち合わせていなかった自分は何もする気が起きなかった。
いつしか、薄っぺらい楽しみに逃げるようになっていった。
こんな自分を見たら高校時代の友人、野球部の監督はどう思うだろうか。
「あいつも落ちぶれたな。」そう思うだろう。
僕の周りには輝いている友人がたくさんいる。弁護士目指して頑張る人、モデルをしながら学業との両立をしている人、ダンスやラップでプロの人。
皆共通しているのはやりたいことがあること。そして、それをやり遂げる精神力があること。
僕には前者が全くなかった。
そして今現在、何かをやり遂げる精神力に対してさえも不信を抱き始めている。
①「果たして俺は自分が思っているほど精神的に強い人間なのか。」
②「実は今までの成功体験はずっと周りの期待に応えなくてはいけないという強迫観念に駆られていただけではないのか。」
何度この問いを自問自答しただろう。答えはいつも否定形だ。そして、自信がなくなっていく。不安になっていく。
「もういいや。疲れた。何も考えたくない。」
不安をかき消すため、薄っぺらい娯楽に逃げる。最初はもどかしさを感じ、何とか抜け出そうともがいた。
しかし…
今は何もせずにベットにうずくまっていることに心地よさを感じている。
ベットの外は暗く辛い現実。ベットの中だけはそこから逃避できる安全地帯。
いつも心の中に不安を感じながらの心地よさ。
そんな感じで年を食っていくのかな。いつも不完全燃焼な気持ちを抱いて。満たされない気持ちで。
ふと思った。「それが死ぬまで続くの?一番良かった十代の思い出話ぐらいしか誇れるもの、すがるもののないまま死ぬの?」
急に我に帰る。
「俺このまま死んで満足か?」
疲れてしまって無気力になってしまった自分にも死の恐怖はもちろんある。人間だから。
死の恐怖と書くと抽象的で自分でもうまく認識できない。具体的に何について恐怖を感じているか考えると…
時間の制約に対してである。
人はみなそれぞれ生を受けたからには、「何か」をするために時間という財産を生まれながらに持ち合わせている。
その長さは人それぞれだ。
そして時間の経過と共に「何か」の幅は狭まっていく。
またその一方、「何か」を見つけた人は深化していく。
自分はそういった貴重な時間を無駄に浪費することに対して、まだ恐怖を感じることが出来ている。
まあ、この恐怖がなくなれば廃人同然なのかもしれない。
しかし俺はまだぎりぎりのところ、首の皮一枚でつながっている。
まだ生きている!!
まだ立ち上がれる。また「何か」を始める力は残されている。
他の人が聞いたら当たり前で、余りに原始的な問いすぎて理解してもらえないかもしれない。
でも俺はまだ生きている!!
三年以上続いたぬるま湯生活は時間の概念が希薄だった。昼か夜かも関係なく、いつまでも自分の心地いい世界に閉じこもっていればよかった。それは楽園のように思えた。
でもいつまでもそれは続くことはない。いやそれ以前に現実という辛い戦場から逃げ込んだ先に楽園はあるはずもない。
待っていたのはやはり戦いだった。抜け出すための戦い。
「今抜け出さなければいけない。」
一生、死ぬまで、「昔が良かった」なんて言い続けることはしたくない。
今が一番。そう思っていたい。
だからもう一度現実で戦ってみようと思う。
「まだやれる。」根拠のない自信が沸いてくる。いつも「何か」を成し遂げた時にその動機になり、原動力になった根拠のない自信。
誇れるものは何もなくなった。誰もいなくなった。必死に掴もうとして得たものこの手から落ちていった。
でも「まだやれる。」
左手に残ったのは本当に信頼できる人達、右手に残ったのは根拠のない自信。
今の俺にはそれが一番心強い。
「まだやれる。」
今に見てろ。
人生9回裏の名誉挽回。