空を駆ける、妖狐がひとり。

優雅ですらある足取りはゆったりと宙を蹴る。

その度に白く長い髪はさらさらと流れ、鴇羽色の着流しの裾からのぞく紫の蹴出しが風に翻る。


風はやがて追い風に変わった。

たなびく雲をあとにして、朝ぼらけの光りの中をすいすいと、水面(みなも)を走る笹舟のように風に乗り空を流れてゆく。


眼下に広がるは、緑の山々。

見下ろせば行く手に小さな三重塔が見えてきた。

ふさふさの白い尾を振りバランスをとると、塔をちらと見て止まった。


「あれがそうかな?」


問われたので、飛ばされぬようしがみついていた襟から今一度わたしも下を見た。

はい、そうです。

わたしが答えると、見目麗しい横顔がこくりと頷き、山寺へと降りていった。






* * * * *



ふう。ここか。

山の中にひっそりと佇むお寺の境内に降り立つと、襟にとまった小さな蜘蛛が、お疲れ様でしたと言った。


それは名も無きハエトリグモ。
めし屋の主人に可愛がられ、毎日せっせとハエを獲っていた。

道具は長きに渡って使われると付喪神になると言うけれど、蜘蛛も大事にされ長らえるうちに妖かしの類いへと足を踏み入れたらしい。

妖怪になるほどの妖力はまだまだ持ってはいない、妖かしの世に来たばかりの蜘蛛だ。


「お疲れ様」


僕はうーんと伸びをし、息を整えた。

御屋敷のある僕らの住まう町からだいぶ北へとやって来た。
それは陸前国の山々に囲まれた、雪解け水の吹き出す岩清水がほど近くにある古いお寺だった。


誰もいない境内をぐるりと見ていると、奥の木の陰から獺(かわうそ)の妖怪がとことこと出てきた。


「おお。本当だ、見てみろ。蜘蛛が妖狐さまを連れて帰ったぞ」
「それも、綺麗な白狐さまをだ」
「随分とまあ、美しいじゃないか」


わらわらと出てきた妖怪たちは、物珍しそうにして遠巻きに僕のことを見ていた。


妖怪も、百年と徳を積めば妖魔になるが、その妖魔の中でも神や仏に仕えし位の高い妖魔は、古くから一目を置かれる存在だ。その名残が今も残っているらしい。


獺たちは、僕が何を言うのかと待っているようだった。


「ええっと、ここの長はいますか」

「おお、長をお呼びだぞ」
「長だ、長だ。お前、呼んでこい」
「わかった!」

「ああ、よかったら案内してください。僕が行きます」

「なんと、行くとおっしゃる」
「行くとな?」
「行くのですか?」

「ええ。行きますよ」

「ははあ。行くのでございますか」
「行きましょう、行きましょう」
「こちらでございますよ」


ひょこひょこと跳ねるように歩く獺たちの後について行くと、お寺の御堂の裏に建つ建物に案内された。

中に上がり通された部屋で待つと、また別の獺が顔を出した。


「おお。なんと有難いことだ。白狐さまがわざわざお越しになってくれたとは」
「どうした?長をお呼びだぞ」
「それが今朝になって、長も起きなくなってしまって」
「なにぃ?長もだって?」


ぞろぞろと皆で長が眠っているという部屋に行き、様子を伺った。
顎ひげをたくわえた長はすやすやと寝息をたてていて、どんなに声を掛けゆすってみても、びくりともせず起きる気配がしなかった。


「和尚に続き、長までが。どうしたものか」
「どうにかなりますかなぁ」
「妖狐さまが来てくれたんだ、なんとかしてくださるに違いない」
「そうだとも」

「うーん。眠りがこんなに深いのは、尋常ならざる理由があるのは間違いないし、それをこれから探っていきたいと思うけど… 」


それにはこの後やってくる連れの力が必要となるので暫し待っていて下さいと告げると、獺たちは安堵してお願いしますと口々に言った。


先程の部屋に戻ると、僕は翔くんに長から取った『気』を伝言に添えて飛ばした。

いちばん速く飛ぶ鷹の姿の伝言は、庭から放つと一直線に空の向こうへと消えていった。

翔くんは、僕の伝言を受け取り、『気』を精査して対処法を調べ、それからこちらにやってくる段取りだ。

庭から部屋に上がり座卓に腰を下ろすと、肩にとまっていた蜘蛛がぴょんと跳んで座卓の菓子箱の蓋に着地した。

あさげですと運ばれてきた心づくしをいただきながら、僕は蜘蛛とお喋りをして翔くんを待った。


「生まれはここなの?」
「はい。陸前国は人の世で言う何処でしたでしょうか?」
「宮城かな」
「そうですか。確か蔵王辺りだったと思います」

「へえ。めし屋さんに居たんだよね?」
「そうです。あそこで長いこと暮らしました。長すぎて、自分でも不思議に思っていましたら、何やら妖かしの気に引かれるように、こちらにやって来たのです」
「で、このお寺に?」
「はい。気づけばここの軒先にわたしのしおり糸が引っかかっておりまして」

「しおり糸?」
「蜘蛛は跳ぶ時などに尻からしおり糸を出して万が一落ちてもいいようにするのです」
「へえ、そうなんだ」
「しおり糸を長く出して、風に乗って空を飛ぶこともあります」


偶然住み着いたお寺の和尚さんたちを、助けたいと知恵を借りに遠くはるばる僕らの町までやってくるなんて、優しい蜘蛛だなあ。


「風が止むことなく吹き続けてくれて助かりました。帝さまの御殿について、わたしの陳情を聞いていただけて、ほんとによかったです」
「ふふ。翔くんが蜘蛛くんを連れて帰った時は驚いたなぁ。でも僕もここに来ることが出来て嬉しいよ」
「ほんとですか?」
「うん。いや、困っているのに嬉しいとか言っちゃいけないかな。でも翔くんがきっと解決してくれるし、新たな経験が出来るのは、僕は嬉しいんだ」
「はい。よろしくお願いします」
「頑張ります」


この国の、妖怪や妖魔たる妖かしたちの世を治める帝の元へは、様々な訴えが寄せられる。

帝の菩提寺の事務方の職に就く翔くんは、いろんな陳情に対処すべく駆り出されることが多いい。
翔くんは大臣からの信頼も厚いから、不思議な訴えに解決せよとよく白羽の矢を立てられるんだ。

そろそろ伝言が届いて、調べ物にかかっている頃かなぁ。



ゆるりと、ひるげの時も過ぎた。
縁側からは、午後の陽射しと柔らかな風が部屋の中へと入ってくる。
僕は袖に持参した本を読んで待っていた。


半分を読んだかという頃。

僕宛ての、先触れの風がそっと頬を撫でた。

すっくと立って縁側へと出る。
空を見上げて目を凝らした。
するとすぐに、いつもの翔ぶ姿が見えてきた。


「翔くーん!」
「潤!お待たせー!」


手を振る僕のところへ翔くんはふわりと降り立つと、持っていた風呂敷包みを縁側に置いた。


「はあ、喉乾いたぁ」
「お茶あるよ」
「いいね、ちょうだい」
「うん」


縁側に立ち、庭や向こうに見える塔を眺めている翔くんのところへ、いれたお茶を持っていった。
僕の差し出す湯のみを受け取ると、一気に飲み干しグイと口をぬぐった。

座って落ち着いたら?と言うと、うんと言いつつも僕を引き寄せた。


「はあ。急いだから疲れた」
「お疲れさま… 」


そうして、唇を寄せてくる。

キスをしながら甘えるように僕を抱きしめた。


「もぉ… こら」
「ん…?」


僕に怒られると照れ隠しなのか、調べた通りに上手くいくか分かんないけど腕が鳴るぜ、なんてかっこよく言う。

けど…

喜びを示す、尻尾をゆっくりと一回振る今はあまりする事のない古の習性みたいなサインが…

翔くんはそれが無意識に出ちゃってて、とっても可愛かった。


僕だって。
翔くんとお仕事出来ること。
翔くんが思ってたよりも早く来てくれたこと。

その喜びを示したい。

だから翔くんよりも、ゆっくりたっぷり尻尾を振った。











つづく