午後の日が古い窓硝子を通り、床に四角い模様をつけていた。
部屋の中はがらんとして何もない。
もう何年もの間使われずに、下地が剥き出しのまま放置されているんだな…
雨水の滲みたコンクリートの壁にはヤモリが走っていた。
しんとした室内はノスタルジー漂う。
「あんなので、よくわかったな…?」
静寂を破った声に振り向くと、影の中から櫻井先輩が現れた。
照れたような顔をして耳をいじっている。
「すぐ気づいた?あれが暗号だって」
「はい… 」
「暗号も、すぐわかった?」
「ええ… そうですね」
「そっか」
「ふふっ」
「ん?」
「あ、いや… またそうですねって言っちゃったなと思って」
「ははっ。ほんとだ」
「ふふ… 」
先輩は剥がれた床のタイルの欠片をコツンと靴の爪先で蹴って転がした。
それを目で追う。
「知ってたんですか…?」
「うん?」
「僕があそこで本を読んでること… 」
「まあね。あそこ、副会長室の真ん前だから」
「え? そうなんだ… いつから…ですか…?」
「さあ。レジャーシート敷く前からではあるけど… 」
「じゃあいちばん最初からだ… 次からシート持っていったから、シート敷いてないの一回だけなんです」
「ははっ… そうなんだ」
「なんか恥ずかしいな…。 声、掛けてくれればよかったのに」
「ん?邪魔しちゃ悪いなと思ってさ」
そう言って笑う先輩に他意はなく、優しさだけがあるようだった。
「あの暗号… 僕に対してのものですよね?」
「そうだよ」
「なんで僕のこと、ここに呼び出したんですか…?」
「ん… 」
先輩は少し口ごもると、転がる欠片を爪先でぐりぐりと踏んずけた。
「夢の話しの続き… したかったんだけど… 」
「え?ここで…?」
「ここ、静かでいいだろ?」
「ふふ。そうですけど… 」
「もう俺の夢の話しなんか、興味ないか」
「そんなこと、ないですよ?」
いつも自信に満ち溢れている先輩の弱気な言葉に驚いた。
ちょっと窓の外へそっぽを向いてて、まるで拗ねてるみたい。
「イリス… の話しですか?」
「えっ?なんでそう思うの?」
「寝言で言ってましたから」
「寝言?…言ってた?…なんて?」
焦った顔がかわいい。
焦るとヒヨコだな… ふふ。
「先輩の夢の話しを先に聞かせてください」
「あー、うん。それなんだけど… その為にはそもそもの裏窓の話しをしたいんだ」
「はい」
「それには、見てもらいたいノートがあって」
「へえ… 」
「でも松本くんが来るとは思わなかったから、ノート持ってきてないんだ」
先輩は困り顔をして小さく笑った。
そして、もし暗号に気づいてくれたとしてもスルーされるかなと思ってさ。だってあやしいだろ?あんな呼び出し方なんてさ、とまた自信なさげな声で外を見つめた。
「じゃあ夢の話しは今出来ないんですか?」
「そうなるね」
「なんのためにここに呼んだのってなりますよ…?」
「いやだから、来るとは思わなかったんだって… 」
そう言ってまたかわいく笑う。
ふふ。なんか面白いの。
拗ねたり、焦ったり、困ったり。
色んな表情が魅力的な人だな。
「僕、来ました。どうしましょう」
「そうだよな。なんかさ、来るとは思わなかったのに来てくれたから、心の準備が… 」
え…?
先輩もドキドキしてるのかな…
「先輩がノートの中身を話してくれるのはダメなんですか?」
「それだとね…。要約になっちゃうし、まずは松本くん自身に読んでもらって、感じて欲しいんだ」
なにそれ…
そんなに大事なことなの…?
「じゃあ、また次にしますか?」
「次も、来てくれる…?」
「はい… 」
「また、避けたり… しない…?」
「…はい」
「それじゃあ… 」
また俺の部屋の窓に、暗号を置いておくよ。
そう言って先輩は微笑んだ。
なのに、ぜんぜん暗号は置かれない。
物置の屋根に上るたびに窓に目を走らせるけど、いつもなんにもない。
もう一週間たった。
生徒会が忙しいのかな…
やっぱり先輩はジゴロ…
気を揉むだけ揉ましておいて、待ちくたびれた頃にまた何か仕掛けてくるつもりかも。
いいよ、そっちがその気なら…
僕は会えなくたって構わないんだ、から…
それでも物置へ足は向く。
だってゆっくり本が読みたいんだもん。
そうだよ。僕の見つけたお気に入りの場所なんだから。
梯子を上り、芝に袋を投げる。
すると白い塊が目に入った。
拾って手に取る。よじってある紙をほどいて中の重しの石を退け、紙のシワを伸ばした。
これが先輩の字?
ふふっ。
『松本くん。生徒会で進行している案件が只今不測の事態になっています。その対処に追われていて手が離せません。来週には片付くと思われるから、今暫く待っていてください。櫻井』
そっか。やっぱり忙しいんだな。
運動部のシャワー室の改装とか、陸上トラックの脇の煉瓦塀の補修とか、生徒たちからの要望は色々あると聞くし…
「俺のイリス」
それって、僕のことですか?
どんな夢を見たの?
その話しを僕にしたいのは何故?
会わない時間に聞きたいことは膨らんでいく。
ノートにはどんなことが書かれているんだろう。
早く読みたい…
僕は先輩の手紙を綺麗にたたんで、ズボンのポケットにしまった。
* * * * * *
イリスの裏窓は相変わらずきっちりと閉ざされていて、あの日レースのカーテンが開いたきりだった。
潤くんはすっかり学園に慣れ、勉強のペースも掴み自分の世界を作り上げている。
朝は弱く、午前中はスロー気味かな。
午後は友達に囲まれ楽しそう。
放課後はその輪にいたりいなかったり。
そんな中、印象的だった、潤くんがふと口にした言葉。
「イリスって使者だから、とどまることはしないのかな?」
「さあ?でも神の使者なら普段は天にいるんだろうから、天にとどまっていると言っていいんじゃないの?」
「なるほど… 」
「なんで?」
「いや、使者は用がすんだら帰らないといけないのかなって。淋しいなと思って… 」
帰りたくないの?
天である家に帰るよりも、地上にいたい理由が?
そんな理由があるとすれば、それはだいたい相場が決まっている。
離れたくない人がいるんだ。
ここで言う『帰る』は比喩だろうから、単純に『離れ』たくないってことでしょ?
「潤くん、好きな人できたの?」
「えっ、ええっ?」
否定するでもなく、ただ驚いていた。
自覚がなかったのかな。
今、自分のこと話してたんじゃないの?
裏窓のカーテンを開けさせた、唯一の人。
大野会長と櫻井副会長に目をかけてもらっている人。
イリスと呼ばれて何ら違和感のない人。
だからイリスと言われると潤くんの事だと自然に思ってしまう。
潤くんの想い人は、会長?それとも副会長?
「な、何言ってんの、風間… 」
ふふ。戸惑っちゃって。
そっか。まだそんな段階か。
どっちにせよ、気持ちが伝わるといいね。
僕はそれ以上の追及は止めて、次の話題に変える潤くんの話しを聞いていた。
* * * * * *
さっきは風間が変なこと言うから驚いた。
僕と櫻井先輩は、そんなんじゃないし。
先輩の言うイリスがなんなのかだって知らないし。
いや、暗号のことも寝言のことも誰にも言ってない。
だから風間があんなこと言うのはただの噂からの憶測だもんね?
意識しなくていいんだよ…
手洗い場で手を水に濡らし、その手で頬をペシペシと叩いた。
すると後ろから声をかけられた。
「あ、松本くん!」
「えっと、隣のクラスの… 」
「生田だよ。以後お見知りおき願います!」
「うん。生田くん」
「ね、松本くん演劇部に入らない?」
「えっ?演劇部?」
「そう!今度さ、朗読劇やるんだけどさ、キャストが足りないんだ。是非!どう?」
「いや…僕は… 」
「松本くんはさ、声もいいし、イメージピッタリなのよ。今回だけでもいいんだ。助けると思って。ね?」
「ん… でもいきなり言われても… 」
「ギリシャ神話のね、セレーネの話しなんだよ」
「セレーネ?」
「そう。月の女神のセレーネ。今回、部長渾身の台本が書き上ってさ!だけど肝心のセレーネ役がいないんだよね」
「はあ…。て、僕がセレーネ?」
「もう、ピッタリ!うん!」
「いやいやいや…。生田くんがやったら?」
「俺はセレーネの恋人の、エンデミオンっていう羊飼いやるの。だから、お願い!」
「うーん… 女神とか… 無理だよ。こんな男の声でさ、裏声とかでやるわけ?」
「いや!違うよ!男女を超越した感情表現でもって、物語を成立させるんだ!楽しいよ!」
「そう…。でもどっちかっていうと、演出とか照明とか裏方の方が興味あるから、そっち手伝おうか?そしたら手の空いた人がセレーネやれば… 」
「ダメだよ!他のやつなんてまかり成らんよ。女神だよ?見目麗しくないとさ、やっぱり見た目の先入観ってあるしさ」
「でもさっき、超越した感情表現って…。説得力のある演技なら… 」
「ああ、もう!松本くん、君は表舞台の人なんだよ。やらなきゃ!」
「はぁ… 」
「俺は諦めないからね。今度台本持ってくるから。うんと言うまで俺の話しを聞いてもらうからね!」
「えぇ~~?」
生田くんはにかっと憎めない笑顔で僕の肩を叩いた。
「まあまあ。同じイリス仲間ってことでさ、これからも仲良くしてよ」
「えっ?イリス…?」
「うん。松本くん、自分がみんなにイリスって呼ばれてるの知ってるでしょ?」
「え、まあ裏でそう呼ぶ人もいるみたいだけど… 」
「俺さ、中等部の時、学園祭でイリスの役をやってさ、一瞬イリスって呼ばれてた時あったんだよね」
「へえ… そうなんだ… 」
「まあ、本家の裏窓に関わる松本イリスに比べたら格がぜんぜん足りないけど!はははっ」
「はは… 」
生田くんは、台本読んでねと言って去って行った。
イリス…
そっか。
僕の他にもいるんだ。
なんだ……
※ 生田くん、同じ学年。