にせ深見青山のなぜ、浄霊で明主様をこき使い、
救世教の書物にこだわるか。
私の何度も言うようにやる気の無い信者より、
直接明主様のほうが、よほどいい光が来ます。
なぜ、古い書物にこだわるか。
各教団の分裂していくに従い、恣意的になっていく。
教団の都合の良い教えばかり詰め込まれて、
ビュアなものが無くなり、どんどん劣化していくのである。
なので、古い文章ほど、明主様から離れてないのです。
その辺がわからない人には私の行動は理解できまい。
まつたく、教祖になろうとか言う意思などまったく無い。
さらに、教団を作るつもりすらない。
どうも、その辺が理解できてないようです。