雲雀の鳴き声が聞こえた気がして、私は目を覚ました。この季節に東京で雲雀の声を聞くなんてないだろうから、きっと幻なのだと思う。夜の帷、朝の雲雀、夢の終わり、という言葉がある。私の好きな物語に登場する王さまの言葉だ。その王さまは嘘しか話せない人で、彼が時折見せる悲しげな顔を見ると胸を締め付けられる。彼は幾つの大切なものを失ってきたのだろう。

 私は昔、「幻」という漢字と「幼」という漢字をよく間違えていた。今でも少し悩む。書いた後に、あ、これでよかった、あ、こっちじゃないや、と気付く具合だ。漢字を雰囲気で覚えているのだろう。さて、幻と幼が似ている事について、私は偶然の物ではないと思う。古くから物語では、幼い者がその純粋さ故に見えざるものと邂逅したり、人知を超えた存在が子供の姿をして姿を現したりするようなことがある。人間は、長く生きれば生きるほど磨耗するし、汚くなっていくのだろう。私たちは日々、幻から遠ざかっている。

 だが、幻は私たちの前に時折姿を現す。私は、特に光にそれを見る。何かは分からないが、何かがあって、何かを伝えようとしている。刹那、瞬き。それは姿を消す。恐らく、きっと、まだそこにあるのだろう。絶えず私を見ている。今も多分これを覗き込んでいて。ねえ、見えてるかい。君のことだよ。

 一つ、歌を詠んだ。他にも幾つかあるのだが、とりあえず一つ。知らないふりをすればよかった、と言っている。これは全ての事に言えるのだろう。私なんかが世界を掻き乱して、許されるはずないのに。知らないふりをすればいいのに、そもそも心に私を見せなければいいのに。去った昨日の霜はもう溶けてしまっていて。手遅れだ。袖が濡れてしまったよ、ああもう。

 紙が減った。世界から、紙の匂いが。少し歩けばみんな光る板と睨めっこしていて、世界の美しいところは拗ねて隠れちゃったじゃないか。有り触れた景色と鉄の焦げる臭い、空気が不味い。どこを歩いても人ばかり。それもみんな睨めっこしている。不気味だよ、不気味じゃないか。あるのは木のアーティファクト、オブジェクト。のびのびと地球に伸ばす羽根は、コンクリートに阻まれて矯正されていて、窮屈だろう?

 知識は嗜好品だった。だからみんな学び、知識を蓄えようとした。今は逆に知識を嫌う、学びを嫌う。望めばそれなりの環境を得られる人だって多いはずなのに。確かに現代では、簡単に知識にアクセスすることができる。だが、知識を蓄える理由はそれだけじゃなかったはずだ。学ぶという人間にしかできない贅沢な遊びをわざわざ放棄する人の気が知れない。まあ、教育というものが悪いとも思う。何事も押し付けてしまっては、反発して嫌いになってしまう人も多いのだろう。

 優雅な午後を過ごしてみたい。インターネットから離れ、自然を感じ、何事も考えずに珈琲を啜るような午後だ。誰かとちょっとした話をするのもいい。のんびりした春風に乗って、世界の平和を知らせるような鳥や虫の声と羽ばたきを眺めながら。春風はきっと鳩や烏、蟻でさえも特別で美しい生命として演出してきれるだろう。そうだ、死ぬまでにいつかやろう。例の友人でも誘って。やらなきゃいけないことが、全てやらなくていいものに変わった頃に。

 美術館にも行こうか。何事にも縛られなくなったら感じられるものは変わるだろう。今も十分楽しいけれど。ただ、どうだか。少し不安になった。忙しなく生きるからこそ楽しめるものなのだろうか。失うものがなくなったら何も愛しめなくなってしまうのだろうか。こわい。失うものを失ってしまうのが。そうなってしまった私は私なのか。私を私たらしめるものは、私の輪郭を描くものは、私の中に詰まっているものは、何だろう。なんか、汚い気がする。ああ、見たくないかもな、わたし。手首の内側が痛いや。

 唇と口の中が乾いていた。一口、お茶を口に入れる。潤いを取り戻す。冷や汗だ、これ。神さまもとっくに見捨ててるっぽいし、このまま乾いて溶けてしまっても構わないのだけれど。なんか、死にたくないみたいじゃん。この世界の大きな海にしがみ付いてるみたいじゃん。なにそれ。全部矛盾してる気がする。救われないと分かっているのに。神さまがいるならきっともう救われてる。救われてないから神さまはいない。あ、そうだ。なんかね、わたし、誰かの神さまになってるみたいだよ。自分も救ってあげられない私が、その子を救ってあげられる訳ないのにね。ふしぎだね。あーあ、泣いちゃった。

 また乾いてしまわないように。今日はこのくらいにしておこう。