正午ごろ、この時間に似つかわしくない学生たちを横目に橋を渡ると、薫風が古びたコンクリートの香りと共に夏の香りを運んできた。もうこんな季節か。私の体は私の意思など構わずに汗を滲ませる。視界が揺らぐ。頭痛。昨日とは打って変わって赫々と私を目立たせる太陽は、私の瞳孔に眩む矢を突き刺す。私を取り囲む悪意(総意)は塞いだはずの耳と詰まった鼻をすり抜けて、更に、更にと頭の中で反響を繰り返す。足元は泥沼で、背中では何かが私の荷物を奪おうとする。けれど、倒れることも座ることも許されない私は、せめてもの思いで地面を蹴り付ける。感触はない。

 大学に向かう道中、茶を飲もうとペットボトルに口をつけたら、殆ど泡しか入ってこなかった。大学に着いてiPadを開いたら、フィルムに挟まった埃に今更気付いた。ツイてないことばかり気が付いてしまうこの癖は私という人間がどういった存在なのかを表しているみたいだ。

 西五号館の一階、西から入って二つ目、左側の机の右の隅に東側を向きながら私は座っている。南と東の壁にかかっている微妙にずれた二つの時計は時間に左右される私を、目の前の壁の世界地図は私の存在の小ささを、多目的ホールの掲示の上の磨り硝子の向こうに積まれた段ボールは真実を見失った私をそれぞれ嘲笑している。視界に映る、耳に入る、頭に響く凡ゆる存在が絶えず私を突き刺そうとする。自意識過剰なのだろう、自覚はある。だが、そう感じてしまうものはそう感じてしまうのだ、仕方ない。

 机が揺れる。地震だろうか、と鞄に仕舞っていた携帯を取り出して速報を確認する。何もない。携帯を机に置き両手を見つめてみる。私自身の手の震えだった。ここ最近、手の震え、眩暈、足揺り、風による建物の揺れ、あらゆるものを地震と勘違いすることが多い。勘違いしてしまうほど本当の地震が多いのだ。上京してからというもの、地震の多さに驚かされる。思い返してみると、地震大国と言われる日本にも関わらず、浜松では話題として南海トラフが上がる程度で基本的に地震とは縁の無い日常を過ごしていた。だからと言って以前の生活に有難みを感じたとか、今の生活に不満を感じているとか、そういったことはないのだが。

 私は他人に比べ、地震を極度に惧れている。気にしないようにと無理をしないと生活が儘ならない。私はこの常識から外れた感覚を恥じ、恰も普通の感覚を持っていますよ、といった振りをして生きている。この世界に生きている人々は、どうして今にも地震が来ると言われている地で喃々と暮らしていられるのか。どうしてそのような地に財産を構え、人生を釘付けて固定するのか。どうして、どうして、どうして。日々の渦から湧き出でて来る、羨望を含む疑問は止むことを知らない。恐らく、人間が進化の過程で身につけてきた、「忘却」の能力によるものだろう。私にはその能力が欠如している。この日常が崩れるのが恐ろしいのだ。生活が変化するのが恐ろしいのだ。天災一つで財産が無に帰すのが、人生設計が狂うのが、物や人の命が失われるのが、全てが堪らなく恐ろしいのだ。この感覚は間違いか。否、生物として当然の感覚だろう。延々とそのようなことを考えていては不都合だから普段は忘れられているだけなのだ。

 ここ数日、三十八度台の熱が続いている。喉の痛みが激しく(痛みは喉の上の方で、咳による喉の荒れなので扁桃炎ではない)、関節の痛みと軽い倦怠感を伴っているのだが、三十八度の発熱にしては生活への差し障りがない。それなりにしんどくなってくれればいいのだが、辛い自覚がないのだから逆に恐ろしい。心当たりは無限にある。原因はその中のどれかに違いない、特別な病気ではないはずだ、と自分に言い聞かせている。

 今週最後の講義が終わった。今日はこのくらいにしておこう。