中国茶は奥が深くて、学び出したらきりがなく終わりがないと、お茶の先生に言われるのですが、最初はちょっと舐めてかかっていた私シラー
上海人に嫁いで、主人のお母さんの故郷もお茶の産地だけあって、お茶の淹れ方やうんちくなんかも良く聞いていたからです。中国の現代っ子よりも、私の方が分っているんじゃないかしらと思いあがっておりました、、、。


本当に学ばなければならないことがたくさんガーン


でも、毎回習うことは、何かしら全ての健康的な中国庶民の生活に親しまれていることなので、在住歴14年も経った今になって、ああ、中国の人たちのあの習慣はこんな意味からきていたのね、と教えてもらうことが多くて、勉強不足で情けないやら、それでも今習っておいてよかったなという感じです。


学生の時は生涯発達心理学を学び、やまだようこ先生のゼミを選考したときに“学ぶとは何か”ということを教えていただきました。魅力的で尊敬する恩師で今も心理学会でご活躍の先生なのですが、20年前に、教室の片隅で聞いていた先生からの言葉が、今も甦り、こうして中国茶の勉強に触れる20年後の今になっても響いてくるから、やはり先生の偉大さを感じずにはいられませんキラキラ



そして、このお茶教室の空間が居心地が良いのは、みんな学ぶことに好奇心を持って、そして柔軟な態度だからかもしれません。

お茶を通した、日中の文化交流、唐の時代のお茶文化の伝承、日本の茶道の話しなど、ことある毎に中国と日本のお茶文化を比較しながら、楽しく授業が進みます。このクラスは日本人が参加していて、国際班になっているので、文化比較もできてお得なクラスになっていると、先生も冗談交じりに言ってくれて、私も誇らしい限りです。レッスン前には、言葉の面で迷惑をかけて、足手まといにならないかと不安になっていたのに、本当に有難いです星




最後に、ここにやまだ先生の言葉を転載したいと思います。

怠け者の私へのエールとなるように、、、


学問は、「勉強(強いて勉める)」とはちがいます。学問とは、文字通り「問うて学ぶ」ことです。
正しい答えを求めることだけが学問ではありません。学問にとってもっとも大切なのは、どのような問いを立てるかです。問いの立て方によって、答えをもとめる方向が変わり、世界の見方が変わります。
 誰も知らない事実を探しもとめることだけが学問ではありません。誰もが知っている出来事や平凡な事実を前に、「なぜ?」と問いを発するところから学問がはじまります。
 問うて学ぶことによって、世界の見方が新鮮なたまごのように生み出されます。あるとき、まるで関係がないと思っていたあれもこれもが、むすびついて見えてきます。あるとき、暗い海面に月の光がさしこむように、何かが透き通って見えてきます。世界や自分が変化していくよろこび、それこそ、学問のおもしろさです。