ドクターストップが出て、家にいるようになり、息子との時間が持てました。


それが一歳になる直前でした。



息子はまだ歩けず、ハイハイをしながら物に手を伸ばしたり、立ち上がったり、ご飯はなんでも食べられました。



ニコニコ笑うけども、パパが帰ったらパパの所に一直線。



私は『ママ』ではなく、ただの『産みの親』なだけでした。



泣いたりしたときにどんな事が好きなのかわからず、とにかく必死に笑わせようとしかできず、主人が息子の好きな事を知っていて、息子は主人を心底信頼していました。


私は一ヶ月沢山の事を考えました。


『どうしたら、息子は私を好きになってくれるんだろう。』
『私の所に来てくれるんだろう。』



悩んでいる私に、主人は、


『でも、具合悪い時はお前じゃなきゃだめじゃないか。』



私はその言葉に激怒しました。



私にとってはそれは褒め言葉でも何でもなく、『気休め』にしか聞こえない。


本当は私が見ていたかった息子を取られた気分でした。



身体がもういうことをきかない。こんな状態になっても、主人は趣味の車いじりの事ばかりで、お金を要求し、私は絶望を感じました。



そのころ、もう主人の職場のクリーニング屋が給料を分割手渡しにしだしました。



先送りや、私達からいわないと給料が貰えないようになってしまったのです。



こんなことって許されない。だから私は労働基準監督所に出向きました。


『生活が出来ない。どうにか支払わせてくれ。』


すると、労働基準監督所員は、
『会社的に不景気で不可能かと思います。でしたら、裁判所へ出向いて下さったほうが確実です。』


私は唖然としました。


労働者と企業の真ん中に立つ労働基準監督所でありながら、両方を守る監督所でありながら、非協力でした。



私達には、裁判(申し立て)のお金すら厳しかったのです。


給料が支払われない。もう身体に鞭を打たなければならない。


しかし、主人は給料払ってくれるよ、俺は工場長だから。口約束で任命された『工場長』に責任をもちその職場に行き続けていました。騙されてるともしらずに。


その時でした。


ガラガラと音を立てるように私達の歯車が崩れたのは。