愛とか言うと

途端に胡散臭くなりますが



昨日散歩中に分かったことがあるから

言わせて❓おねがい





人によって

「愛の前提条件」は大きく違います。



愛の、とか言っちゃうとややこしいけど



早い話が

「幼少期の刷り込み」ですわ。



「家族なんだから

 言いたいこと言っていいんだよ」



と思ってる人もいる。



同居の元旦那がそうなんだけど

最近は私がそうは思わないことやその理由も

前よりは理解してくれている模様です。




一方私は、自分の親に

好き放題ありとあらゆることをしつこく永遠に


やめてと言ってもやめてもらえずに

一方的に言われ続けてきて

とても迷惑だったので



「親しき中にも礼儀あり」



を採用してます。

…距離感、超大事真顔



そう、どちらも「愛ゆえ」の主張。



お前は私の子どもなのだから

私が躾してやらないとダメだ

ほうら、ココも悪いしコレもできてない!



と言われながら育ったので



「言いたいことをなんでも言っていい」



なんて、絶対に思えないし

ほんとやめてくれよ‼️



と思ってる。



「家族は好き放題言い合うもの」

って思ってる人から見たら


私は心を開いていないように

見えたのでしょう。



他人との距離の取り方

私に決めさせてくれニヤニヤ


と思う。


しかし世の中で私みたいな考えが

少数派だった場合



「他人に合わせなくちゃ」って

少なからず思ってしまったり


「私変かな?」


って自分を疑ってしまうこともある。



適当に流してやり過ごすのが一番楽。



「合わせない」でいることだって

しんどい時もあるわけです。




だから結果



私のことを好きな人と対立した時

あんまり激しく主張したくはない


と思っているのです。


が。



そーすると、境界線が曖昧になってきて



挙句の果てに

自分の気持ちが分からなくなったり

自分を貫くことに罪悪感を覚える



という、おかしなことになってしまうのです。



人って一人一人自由なはずだろ❓



少し無理して相手に合わせたりしてると

だんだん嫌いになってくるわけです、

相手のことを。



だから

自分のことを好きな人や嫌いな人のこと

気にして相手に合わせるって、危険。



自分が、相手に合わせてあげたい!!チュー


とか


今回は…合わせておくかえー


という自覚があるならいいけれど


生活というのはもっと曖昧で

そこまで自分の気持ち確認する余裕も

なかったりして


咄嗟に現れるのは長年の癖。


だから時々

こうして自分を振り返る時間が必要だ。



同居の元旦那、



という他人と暮らしていると

彼に合わせられない

彼の期待に応えられないことが多すぎて


さらに、彼が

それを寂しく思って拗ねると変な言動をする。



そんな時につい



私が悪かったかな



と思ってしまうけど

そもそも合わないのです。



合わせなくちゃいけないってことは

ないわけじゃん。 


それに私には、彼の気持ちは本当のところ

分からないのです。 



自分の気持ちを言葉にできない人に対して

先回りすることをやめたいけれど

ついやってしまうんだな。



空気でわかるのに無視して

自分貫くより


空気飲み込んじゃった方が楽だから

その場では。



ま、彼を例にして書いてみたけれど



私のこと好きな人が

私に接触してくるわけで



私のこと嫌いな人のことは

どうでもいいのです。



ですが、好かれる、って

そんなにいいもんでもないよなと、思う。



期待されるじゃん。

期待に応えてあげたい気持ちはあるけど

それはできない。



だからサービス精神て呼ぶのか

この感情や感覚からの行いを。




ほとんどの場合

愛と憎しみは紙一重。


愛を上手に差し出せる人が好き。



不器用でも愛だと分かってるから



君は本当に私のことが好きだね♡



とか言ってみると、反応が可愛い。



拗ねて歪んだ愛は苦しいけれど

まっすぐな愛は可愛い。



あまりにスルーし過ぎると歪むので

たまにちゃんと受け取ってあげよう、


と思います。



…私のやり方で

受け取ってはいるんだけどね。




言葉が好きなのは、

人と人の間を持ってくれる

有効な道具だからだ。



効果的に使えたらいいが

道具使うより手でいっちゃった方が早いよね



てことも多いので

私が言うことまるで分からない勢も多いことを

知っているからこその、自覚強化。