高次の存在、
 
という単語を、スピリチュアル系の情報を見てる人ならば知ってると思います。
 
高次元の存在、という意味で、つまり、我々のような三次元より高い四次元や五次元やら、もっと上の存在のことで、
 
一般的な常識の中では認められてはいない。
 
あるか?ないか? 
 
に関しては、ひとまず「ある」と言っておきましょう。
 
数学的、物理学的にも多次元の存在は認められているのだから、そこに何らかの「存在」がいてもおかしくないでしょう。
 
例えば「幽霊」だってそのひとつだろうし、畏れ敬う「神様」と呼ばれるものもそれらに該当するかもしれませんね。
 
しかし、そんな話をしたいわけでありません。
 
なんとなく、高次元と聞くと、低次元のここが、そしてこの世界で暮らすあなたや私が、
 
しょぼい、
 
存在と感じてはいないだろうか?
 
低くて、小さくて、弱いと…。
 
高次は偉くて、低次は偉くない、みたいな。
 
漠然と、です。なんとなく、そう思われてるフシがあり、
 
だから高次をありがたがるし、
 
高次元からのメッセージとか、
 
高次の存在とチャネリングとか、
 
そんな話を聞くだけで、
 
全面的に「正しい」と、多くの方が鵜呑みにしてないでしょうか?
 
少し見方を変えましょう。
 
例えば、
 
「僕は年長さんだから年少の子よりも偉いんだぞ!」
 
と、幼稚園児あたりだと言いますね。
 
なんなら中学生くらいになっても、
 
「オレは先輩だぞ!」
 
的な子はいますし、
 
なんなら大人になっても、年齢や職場の勤続年数で、優劣や偉さを決めつける人っています。
 
幼稚園児が下の子に威張るのはなぜでしょう?
 
それは精神が幼いから、ですよね。
 
先輩風吹かせ威張る中高生はもちろん、
 
年齢や、職場の職歴でただ「長い」だけで威張る人も、同様です。
 
精神が幼いのです。
 
スピリチュアルな人で、
 
高次元が偉い、と思うのは、同じです。
 
幼いのです。
 
その思考が、幼稚なのです。
 
おそらく高次を「偉い」と思う人は、
 
自分より「低次」を見つけると優越感に浸れます。
 
まあ、その幼い精神こそが三次元の特徴といえばそれまですが、
 
小学生一年生と六年生は、
 
カリキュラムが違うだけで、
 
偉くも偉くなくもないですよね?
 
それとおんなじです。
 
高次が偉いわけではなく、低次が偉くないとか、そういうことはありません。
 
高次を崇めることも、自分を卑下することも、低次を見下すのも、すべて幼稚な思考と言えます。
 
あなたやわたしはこの三次元の地球で、
 
目の前のカリキュラムをこなすこと以外にやるべことなどありません。
 
ただ、六年生は一年生にアドバイスはできます。
 
だから、もし本当に「高次の存在」からのメッセージなら参考にはなります。
 
あくまでも、参考です。なぜなら、言われるままにただやるのなら、ただの言いなりです。成長しません。そこはすでにカリキュラムを終えてます。
 
次は「自分で考える」ことがカリキュラムです。
 
最後に、高次元というのは、我々と基本的に接点がありません。それが「次元」という仕組みです。
 
だから高次の存在など、基本的にはコンタクトはありません。
 
だからそんな接点を探すのは徒労ですし、中途半端な存在(低級霊)に乗っ取られるのがオチであり、
 
その乗っ取られた人の「高次のメッセージ」に踊らさせれる可能性が高いです。
 
低次でいいじゃないですか?
 
幼稚園には幼稚園の、
 
小学生には小学生の、
 
カリキュラムがあり、遊びやゲームがあり、それは当然「楽しむ」ことができます。
 
この世界を、あなたの世界を遊びましょうよ?
 
そしてそれこそがあなた自身が高次へ向かう、唯一であり、最短の道です。
 
⭐️

 

先日、中国茶の会へ行きました。

お茶で酔う。素敵な体験でした。

のめり込んだら怖い世界(笑)

ったくらい奥が深い。

 

肉体と精神と、時間と空間のある世界での、贅沢な遊び。高次の世界に行ったら、このサプライズはないんですよ?

驚きとワクワクの、体験の世界。楽しいですね。

 

 

 

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