自分は、神を信頼していなかった。存在を楽しんでるだけで、信頼はしてなかったのだ。
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マザーテレサ曰く、
将来何をするかではなく、今していることに愛を尽くしているかが問題
ってのは、神の完璧性にたいする信頼が大前提なのだ。
神の計画が完璧が故に、未来とは現在まさに発現されているところの、時間を超えた、永遠不変の摂理(神)が具現化したもの。と言っていたんだね。そのためには、神を信頼して、己れを捨てて、まるで高所から飛び降りるように真理に委ねよって・・
わからなかった。
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バガバッドギータ曰く、
戦士アルジュナが戦場で言った。
「私は戦えません。同族を殺すことはできません。」
すると、聖クリシュナは、こう言った。
「アルジュナよ、戦え。戦うのがお前の持って生まれた運命なのだ。」と。そして戦士が累々と横たわっている戦場の有様を透視させてくだすった。
↑ これも、アートマンに対する信頼が大前提だからこそ、人生をまるでお芝居の役にすぎないかのように説明するのだ。
己をすてて、親愛に基づいた行為を尽くせって・・
摂理の完璧性故に、人間には自由意志がなく
結果ではなく、行為(親愛に基づく信仰)そのものが、そこで尽くされた親愛(真理をそのように表現)が、”未来”であると言ってるんだ。
神は信愛なりといってたんだね。
また、その身体の行為の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者になるか、という選択の自由だけを持っているのである。(ラマナ)
なんて説明するのだ。
勿論、釈迦も、自己(アートマン)を尋ねよと言っている。
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ついでにいえば、
日本の 今・ここ・わたし 今に生きる、今この瞬間
アートマン 神の否定 と 親和性
↑ 背後にある理法ではなくて、事象をそのまま真実と考えるので、与えられた中でできるだけ楽しむ、純粋意識の否定、人生に意味はないただ生きるのみ、だって仕方ないじゃん。これでいいのだ、ありのまま、なんて考えたがるのだ。
非信仰的な態度で、深刻な思惟を避けるために、考えない様にするために、自我意識を放棄して、生きて行こうとするんだね。事なかれ主義。だから幸田露伴は、日本人は強いものに弱く、弱い者につよいなんて言ったんだ。論理的だね。うわー
アートマン(内在する神性)を否定し、自己とは、二元論でいうところの、単なる被造物にすぎない(目的なんてないんだ)との理解を悟りと呼び、現在の連続が、未来であるなんていうのが、日本の禅をはじめとした、現世中心主義と呼ばれる精神文化である。
釈迦が尋ねよと言った自己(アートマン)を否定して、物質的なありのままの自己(欲望も)を追認しようとする、正反対の解釈。(だから日本では律宗は根付かなかった。)
日本教徒ダニ。
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神(真理)を信頼するからこそ、委ねるからこそ、自我の滅却が要求されるんだね。
↑ マザーテレサのこの語り口調は、自我をできるだけ放棄し、神の意思(真理)の道具たらんとするものだったんだね。
むむむ、だからこそ、イエスは自ら十字架を担いだんだ。
なんじゃそれ!!!!!
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だから シルバーバーチは、取り越し苦労するな
それ自体がマイナスになると説明してるんだね。
真理を受け入れたものは、取り越し苦労をしないのは
神を信頼してるからだ。
そのこと自体が霊力であり、永遠たる真理の発揮であり、時間を超えた未来だってことなんだ。
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むむむ・・ 痛いな
むむむ・・ 駄目だこりゃ
むむむ・・ 穴が在ったら入りたい
むむむ・・ もうやめて
むむむ・・ 瞑想方法とかもこれに尽きるってことは
駄目だコリャ
なんて近頃考えてました。
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追伸
疲れたので、FBで最近いろんな人と話してます。
真理探究が好きな方は気軽にメッセください。