合掌している仏像君は、いったい何をしているのでしょうか?

 

 

 

人生に疲れた時に、やってみるのもいいでしょう。

 

クンダリニーヨガと絡めて、その意義と、その仕組みをお話したいと思います。

 

もし、あなたがこの意義を、例え凡そでも理解すれば、あっさりと、固定概念を打ち破る神秘主義的な体験をするでしょう。でも、その時までは聞く耳すら持てない。

 

明らかに神秘主義的な宗教体験をしているこの夫婦は、何をやっているのでしょうか?(オジサンは、グラミー賞にもノミネートされたことがあるらしい。)

 

 

   仏像君との異同はなんですか?

 

 

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 スタート

 

仏像が合掌しているのは、自己の仏性を礼拝することで、仏性と自己(心の本性・霊)とを合一させるため。

合掌は、そのテクニック。

 

インド哲学では、

「私」とは、肉体と区別された心の本性(アートマン)と考える。

「私」の”究極”を仏性(ブラフマン)という。

 

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あるがまま の 自己とは、この仏性のこと。

神の子 である ってこと。(歴史上、日本には一切ない思惟方法です)

 

    ・・・

 

 この二つを合一したときに、生じる神秘主義的な体験を

インドでは「悟り」といって求道者はみな憧れた。(体験には段階があります)

 

因みに、シャンカラの、不二一元論とは、後者(仏性)に力点を置いた一定の体験者ならではの視点。私とはブラフマン(仏性)であるというのだ。

 

     ↑ なんだけど、見つけてるので、すでにもうここにあるみたいな感じで、ブラフマン=アートマンという。

 

カトリック神秘主義では、この仏性を、「神の似姿」と呼ぶ。

 

例えば、ピノキオは、死(顕在意識の打破)と復活によって、単なる被造物から人間となり、胸に金のバッジが現れたという宗教映画    

 

       

スピリチュアリズム・シルバーバーチの霊訓では、この仏性の事を、「魂」と呼び、人間の中に莫大な富があるという。

 

       ☝

  

合掌は、そのテクニック と云いましたが・・このテクニック版が 仏像君の、合掌の意味

   

       ☟

 

人間の身体には、+と-のようなエネルギーが流れていて 手をくっ付けることで、均衡がとれる。

 

 まるで豆電球がつくのように、手先に集まる、しびれるし。まるで電池のように、胸が熱くなる。

 

 このテクを使いながら、仏性を礼拝することで、胸はギンギンになり、感動の渦の中に、経験している自我性を埋没させているの。

 

  仏性を礼拝することは、自分を礼拝すること。

 

  仏像君は、すでに、ランクの高い宗教的な合一体験をしているので、仏性を特定しているのだ。

 

 

 ☝ このニュアンスを例えるならば、

 

懐かしい匂いを嗅いだら、当時の記憶がよみがえるように。

仏像君は、その匂いを特定しているので、その香りを意図的に嗅ぐことで、記憶そのものの中に入ろうとしているのだ。

 

 

仏像君は、肉体のリミッターを外すテクを使用しているのだ。この足の組み方だってテクを表現しているんだ。(製作者は知らなかったと思うケド)

 

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 動画の、クンダリニーヨーガをしている、オバチャン夫婦は何をしているのでしょうか?

 

 

  おばちゃんは、合掌の代わりに、胸に手を当てている。

  仕組みを知っているので、それで十分。

 

 

        胸は愛

 

        頭は叡智 

 

 

もう片方の手は、頭上にかざしていて、胸と同じ理屈で、頭頂をギンギンにしているのだ。

 

その証拠に・・

 

☝ こっちの動画では、呼吸法いれている。この呼吸法は、松果体を意識して、刺激しているものである。(これほどの知識は机上では身につかない。教えてもピンとこない。)

 

        

このテクニックを使用しながら、うっとしりながら、さらに歌う。

 

 

Ong Namo Guru Dev Namo  

  

  いわゆる マントラ

 

 

 Ong は、寺の鐘の音と同じで、松果体を刺激する音。

 テクニック音 この振動をぶつける。

 

 Namoは、「南無」 帰依する

 

  Guru は、 導き。マザーテレサのいう神の渇き。

 「あなたが選んだのではなく、神があなたを選んだ」とか    の、ニュアンス。体験者はその程度に応じて、それを確信している。

 

  Dev は、仏性を 具体的にイメージした言葉。

 

 

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 ビートルズにも Jai guru deva om の歌詞があるらしいね。

 

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 人間とは、肉体に閉じ込められた、霊的な存在 であるので、

 

 これを知っている体験者は、肉体的なリミッターを、テクニックで緩めようとする。

 

        歌もその一つ。

 

    みんな知ってるように、楽しくなるテクニック。

 

  

  ( 更に踊れば、イスラム神秘主義のスーフィー に通うじる・・)

 

 

   オバチャン夫婦はこれをやってるわけです。 

   

 

        自己の礼賛。

 

  

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  では、仏像君とオバチャン夫婦の違いはなんでしょうか?

 

 

  オバチャンは、アートマンを楽しんでいる。

  自分が、神の子であることを、礼拝して楽しんでる。

  (ラマナ・マハルシとかも同じだね)

 

  

  ただそれだけ。

 

 

  仏像君は、アートマンに従って生きようとしている。

  神の似姿を発揮しようとしている。

  (ナザレのイエスとか、マザーテレサとか)

 

  

  けどね、疲れた時は、楽しむこともいいよね?

  マザーテレサは眩しいし。

 

 追伸

 仕組みをしれば、自分なりの方法で、アレンジしてみましょう。儀式ではないのです。