序文
宮崎駿のアニメ映画、もののけ姫を、神秘主義的な視点で、スピリチュアリズムの視点から見てみると、とても興味深いのです。
インド的神秘主義でも、キリスト教神秘主義でもない、かといって、オリジナルなものでもない、ただひたすらな、機械性、パターン性が、展開されているのです。
まことに、「私は特別だ」とか、「私は悟った」とか主張されているお人の御本やブログであっても、日本人の思惟のただのパターン性の範囲内であることが、泣けてくるほど分かってしまいます。
これを知ることで反対に、アルメニアのグルジエフ君が生前、鬼の首をとったかのように、唱えていた、「機械人間」ではない、「自覚ある状態」の人を見つけることが、いともたやすくできるのであります。
ではスタート。
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もののけ姫の 第一の 可哀そうな限界は
自然の中に意識をみつけながらも、その意識と「私」との関係性や繋がりを、持つという発想が出来ない。
「私」の視点がどこにもないのだ。
(こだまと、「私」との関係性が思いつかない。)
しし神と、だれも精神的な絆や繋がりを持とうとしない。
誰も、しし神を愛さなないし、だれも愛を求めない。しし神もだれも愛さない。
神なる意識との親愛がない
意識みつけたら、普通さ、親愛関係を持とうとすると思うのですが・・・
ない、ない、どこにもねぇー
これって、凄い事なんだぞ!
ただ、利用しようとする、徹底的な現世中心主義・・
しし神に、なぜ語りかけないの?
(理由はゆっくり明かしていきます)
「共存」って何よ?
三社参りとかでも分かるように、誰も、祀られている「神の意識」との絆を築こうとしないのと同じだ。
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では、宗教を宗教たらしめている、神秘主義の視点でこれがいかに、パターン性と言われてしまうか見てみましょう。
因みに、古来より日本に神秘主義はありません。
親の仇のように否定してきましたから。
日本の禅は、そもそも、この意識を否定します。
ガウタマ・シッダールタを含む、インド的神秘主義は、自然の中の意識と、「私」とを、一元的に理解し、一つになろうとしました。
そういう系統のお話が好き。
個性の発揮ではなく、根源的な自我性(自然の意識と同じ)を回復して幸せになる。
(サールナート博物館の、有名なこの仏像は、ガウダマが、神秘主義者であった事を表現しています)
経験的な自我を否定して、根源的な非我意識と一つになろうとするので、ヒーリングとか、霊能開発とかは発達しなかった。寧ろ、執着として捉えられる・・
初期の段階から、ラマナ・マハルシは癌の治療を受けなかった。
(この映像の凄み・・ 腕に注目。)
ラーマクリシュナは、ケーシャブという親しい人が咳の発作でおそわれ、一緒にいた誰もが、胸を締め付けられるほど、長い事苦しんで、壁をつたいながら病室に戻って行ったときこう言った
「わたしは、病気が治る様に、なんていうようなことは、一切言えないんだよ。そういう力を大実母にお願いしなかったからね。私は大実母にいつも、清い信仰を授けておくれ。と祈るんだ。」
クリシュナがアルジュナに言った。「弟よ、もしわたし(神)のところに来ようと思ったら、八台神通力のうち、一つでも持っていてはだめだぞ。」 ※ インドの覚者がよく引用する言葉
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大切なのは、その意識との「親愛」だ。
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解脱がほしいと言うのなら
わたし(クリシュナ)は気軽に与えもするが
けれど純な親愛を ほしいと言われては困るのだ
なぜならこれを獲た人は
あらゆるもにに打ち勝って
すべての人にかしずかれ
三界の勝者となるからだ
チャンドラーヴァーリーよ、よくお聞き
浄い親愛はどんなに強いか
解脱をえるのは優しいが
親愛を得るのは難しい
※過度の慈善をいましめて
バリを地獄で働かせたが
かれの信仰にほだされて
わたしは門番になったよ
純な親愛はまた一つ
ヴリンダーヴァンの牧場のはなし
きみたち牛飼乙女たちだらけで
他人の知らない秘密のはなし
浄い親愛にほだされて
わたしはナンダの家に住み
ナンダを父と呼び仕え
頭に荷物をのせて運んでいるよ
※ ゲッセマネの園に自ら赴き、十字架に架けられたイエスの生き様との違い。
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この唄を創ったインド人、相当スゲーよ。
クリシュナ信仰の肝は、神秘主義のど真ん中
絶対に、絶対に、日本人が興味も関心ももてないお話。
御伽噺だと思ってる。
まるで、「偉大なるコックリさん」、と言えばその匂いがつたわうでしょうか!
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キリスト教神秘主義は、同じその意識を、より人間的な意識として捉えて、親しい人間のような関係性を築くことで、「霊的な変容」遂げて、それを外に表現(他者の意識に奉仕)しようとします。
ラジオのスイッチが入り、電波を飛ばしている状態であり、その電波のことを「個性」というのです。
その個性こそが、「私」の本質なのです。
偉大なるコックリさんといえば良いでしょうか?
この思惟を映画にするならば、
スーパーマンや、スパイダーマン、マスク(ジムキャリー)といった傾向になると思います。そんなんバッカシ
(平凡な人間が、「変容」遂げて、個性を発揮する)
神的人間としての神との絆を深め、発揮するのが「個性」であり、「私」
個性の本質(霊性)を発揮している状態こそが至福であるのだ。
ヒーリングも、霊能開発も、奇跡でもご褒美でもない、法則として理解できる。
試練の克服を受けて立つ。激しいね。
その意識の外にある人は、ピノキオのようなただの人形であり、パターンでしか思考、行動できないと思惟する。ピノキオってそういうお話。
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純な親愛はまた一つ
ヴリンダーヴァンの牧場のはなし
きみたち牛飼乙女たちだらけで
他人の知らない秘密のはなし
親愛がないのに、絶対に秘密はわからない。
嗚呼、これがすべて。
み~んな、同じ視点からしかお話してない、無個性。
理解することも、関心をもつこともできなし。ただ、自己正当化して、これでいいのだ、と繰り返してるだけなのです。
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では、もののけ姫では、どのように、「私」を得ようとしたでしょうか?
これが面白すぎて・・・ 私は、日本人が、乙事主に見えてしまいます。
戻ってきた。黄泉の国から戦士たちが帰ってきた。続け!戦士たち!シシ神の元へ行こう!
宮崎駿って、美しい日本人だよね。スゲーな芸術家は!
なんでこんなに、煎じられるのだろうかね。
けど次回に。