先の事を思わず、過去に囚われず、今をしっかりと生きる。


苦しみの少ない生き方はこんなことでは無いでしょうか?


お釈迦様の仏教は物凄くシンプルな教えです。


皆さん!世の中難しく出来てませんよぉ


雨が降ったら傘をさす


お腹がへったらご飯を食べる


眠くなったら寝る


だけど理由を着けちゃうんですよね~


眠くなったらに理由はいらないんです。寝ればいいんですよねぇ


シンプルですよ!シンプル


お師僧様とお大師様にお会いしたくなり、あさか大師に行ってきました。と言うよりお大師様に呼ばれたような気がします。


8月から9月にかけて思考の罠に陥っていまして何処か理由は分からず若干スランプ気味でした。


たまたま時間の余裕が出来て、思いつきです。


そうだ!


あさか大師に行こう!


師僧様、山路天酬に会いたい!


お大師様に会いに行かなくちゃ!


こんな思いになり、飛んで行きました。

ちなみにご理解戴けるとは思いますが、飛んで行きましたと言っても飛行機ではなくて自家用車ですのでご容赦戴ければ幸いに存じます。


自分の意志で行ったと言うより、お大師様に呼んでいただいたと

思いました。


と言うのも偶然にしては出来すぎでしょ。と思うことの出来事の連続でした。


お師僧様の弟子にさせて頂き、お当然大師様の弟子にもなっています。不思議な不思議な目に見えないお導きに改めて感謝の一日となりました。


自分で何とかしようともがいているうちは神仏も力を授けられません。

素直な心になれた時、ゆだねられた時に神仏の加護を感じられるような気がします。





日本一小さいお寺の住職、永井妙智は、


そう言えば坊さんになってからお師僧様や弟子仲間との複数で写る写真は多くなってきたけれど、一人の写真が少ないのできちっとした写真が欲しいと思っていました。


思いは届きますねぇ


今日たまたまプロのカメラマンさんが来ていたところに居合わせたので私の写真も撮って頂けるようにお願いしてみたところ快く承諾していただき撮って頂きました。



さすがにプロのカメラマンさんです。


ジャニーズ顔負けのブロマイドが出来上がりましたわ。






カメラマンさんはプロですが、
モデルはプロのモデルさんではありませんからね(笑)

チコちゃんに叱られるを見てましたら血管がなぜ青く見えるのかとの問いに、答えは目の錯覚と言われていました。


ここからは坊さんの屁理屈で申し訳ありません。


血管の色が青く見えるのは目の錯覚でしたが、全てにおいて目の錯覚と言うのはどうかと思ってしまうのです。


多数決で多くの人がそう見えていてもそれが本当の色形とは限りません。


同じものだとしても角度や光の案配によっても見え方が違います。


多数の意見だけでこれだと決めつけてしまうのはどうかと思ってしまいます




YouTubeで古事記、大国主が紹介されていました。


古事記では日本の神々を紹介しているんですけど、私の個人的な感想ですけど、古事記に出てくる日本の神様は生々しいと言うか、どろどろしていると言うか神様と言うより権力者の匂いがすると昔から感じていて、その神様方のおられる神社の清々しさとは矛盾を感じざろう得ないのです。


神話の中の神様と実際の神様は違うのかも知れませんよね。


個人的な感想ですので気にしないでくださいね


過去に囚われていてはいけませんよ。


そもそも過去なんで時間の概念はこの宇宙には存在していません。


今から貴方はとてつもないグローバルな考え方の持ち主です。


貴方は今から地球なんて狭いところではなく宇宙に出ます。


地球にいると朝があり日が沈むと夜になりますが、宇宙には日の出も日の入りもありません。


つまり過去も未来も時間が存在しないんです。


地球にいると過去や未来と言う時間軸によって不安や苦しみを自ら作り出しているだけなのです。


本来は何もないんです。


何も存在しないんだけれども存在を作り出しているのです。


色即ち是空也


空即ち是色也


般若心経です。


仏教 密教はこのように説いています。


府に落ちると楽に生きられんですけどねぇ。

何にも感じない人がいます。


敏感な人がいます。


信じる人がいます。


信じない人がいます。


万人が霊の存在を感じるわけでは有りませんが、その感度は違えど敏感に捉えている人も多くいるのです。


何が言いたいかと言いますと、私は人様と比べようが有りませんが霊の存在に敏感に感じるほうかもしれません。


真言宗のお坊さんは除霊とは言いません。


浄霊と言います。


太古から霊の存在は素直に認められてきました。世界中で浄霊が方法は違えど修されて来ました。


否定するのは簡単ですが何千年もの時間を続けられてきた浄霊を霊はいないと否定するには否定する根拠を示さなければならないと個人的に思っています。みんながやっぱりいないと納得する答えをです。


霊がいないとなると神仏もいないことになります。


いなければ葬儀もいらないし、墓も寺も神社もいらないことになりませんか?



その昔、コントで見た場面を思い出しました。穴の空いた箱に手を入れて中のお金を掴んだ分だけ貰えると言ったもので、強欲な人が掴んだお金を穴から抜こうとしても多すぎて抜けないと言うコントで笑わせていました。

笑っていたコントですが、思い直すと笑うに笑えないなぁと思いました。

私達も手にしたものに頼りすぎていて必要以上のものを手放せずにいるのかもしれません。


メタボな体型の私は必要以上のカロリーを摂取しています。


必要な分だけにしておけば自分の体調も良くなるし、食料もどなたかに行くことにもなるでしょう。


何かを手放さないと手に入らないものがあります。手放すことによって気付くことも多くあるのかも知れません。

幸福〓満足〓欲望


欲望が満たされることで満足感が得られて幸福感になると思われがちです。


ある意味その通りなのかも知れません。


しかし、お釈迦様の仏教の幸福感は少し違った考え方のようです。


幸福〓満足〓小欲


人間の物欲にはキリがありません。


物欲を分母にして幸福を分子にした式にすると欲にはキリがなく満たされることは少ないでしょう。


一方、欲が少ないを分母にした場合は少しのことでも幸福に捉えることが出来て幸せな生き方が出来るようです。


周りを見渡して見てください。


結構満たされてるでしょ。ほらね