ドイツ工作連盟(Deutsche Werkbund) の一員だったワルター・グロピウスが、1999年、ワイマールに総合造形学校 『バウハウス(1919-1933 Bauhaus)』 を設立しました。
ドイツ工作連盟について
『バウハウス(Bauhaus)』 という名称は、中世の時代に教会堂を建てる際に必要な大工、石工、彫刻家などあらゆる部門の人々が集まる場所、そしてその組織を意味する 『Bauhutte)』 に由来します。
又、中世の工芸師たちの組合であるギルドで使われた親方、職人、徒弟という呼び方も復活しました。
バウハウスは、教育とその実践を重要視していました。
設立当初から、建築家、画家、彫刻家などの創造作業に関わる人たちをその能力に応じて教育し、あらゆる創造的作業を一つの統一体として作り上げる事を基本理念としました。
つまり、芸術と工芸の統合です。
又、数年後には、芸術と工芸の統合に加え、 機械工業 との結びつきが強調されていきました。
組織が軌道に乗るにつれて、機械工業による大量生産を主眼とする教育とその実践が強化されていく事になったとも言えます。
ワイマールでのバウハウスの教育は、大きく形態教育と工作教育に分かれ、それぞれに教育者が配置されていました。
形態教育では、形、色、材質などから生み出される美的感覚の養成、一方、工作教育では、絵画、彫刻、織物、陶芸、金工などの各工房のうちで、徒弟たちはそれぞれひとつの工房を選択し入門し、製作技術を学びました。
形態教育、工作教育を終了すると、職人の免状を取得でき、さらに職能審議会の試験を合格すれば、親方の称号を授与されました。
1923年に一時ワイマールのバウハウスは閉鎖され、デッサウに移設されました。
デッサウでは、ワイマールのように、形態教育と工作教育をそれぞれの教育者が教育するのではなく、一人の教育者が両方の教育に携わっていました。
と言うのは、ワイマールで統一的教育を受けた若い人たちが育ち、両方を担当し始める事が出来たのです。
このように、デッサウでは、芸術、工芸、科学技術の面で、総合的に教育する事を理念とされました。
又、工房の数もワイマール時代に比べて増加し、後に世界で始めての鋼管椅子を製造するマルセル・ブロイヤーは家具工房の教員として活躍していました。
1927年には建築部門が設立され、同時期にワルター・グロピウスが設計した校舎で教育が行われました。
デッサウのバウハウスでは、ワイマール時代からさらに発展して建築、芸術、工芸、科学技術の統合が目指されたのです。
近代技術の発達が各分野の分業と専門化をもたらしましたが、それぞれの分野の人たちが対等な立場で共同作業をし、統一体、総合体を作り出す事を理念としました。
そして、実用的、合理的な製品を創造する モダンデザイン の思想と理念は、その後の世界に影響を与えていきました。
1932年にバウハウスは社会主義的傾向を持っているとみなされ、ナチスに閉鎖させられました。
その後、ミース・ファン・デル・ローエ がベルリンで再建を試みるも、かろうじて6ヶ月継続した程度で1933年7月に封鎖されました。
しかし、バウハウスの思想と理念は、アメリカに亡命したバウハウスの指導者たちによって、引き継がれていきました。