生徒が間違えるとどうして私はほめるのか。 | 柏英数教室 明倫舎 千葉県柏市 学習塾
他の塾から移って来た生徒が必ず口にするのは次の言葉です。

「私が間違えてもどうして先生は怒らないの?」

どの生徒も口を揃えて訴えるのが、間違えると怒られるという他の塾の実態です。

私の考えでは、間違えないならば塾に来る必要などありません。

間違えるから塾に来るのです。

生徒が何回間違えようが、理解できるまで教えてあげれば良いではありませんか。

生徒が理解できないとすれば、それは2つの原因が考えられます。

一つは生徒に学習障害があること。

さらに見逃せないもう一つが指導する者が無能であることです。

前者は塾の問題ではありませんが、後者は塾の問題です。

さて、今朝は確定申告に関してある場所に足を運んだのですが、何も知らなかった私は事実上の門前払いで帰宅しました。

門前払いで腹が立ったか?

いいえ、全然。

腹など立たないどころか、一つ学習してまた賢くなったと満足しています。

知らなかったことによる今回の失敗で、次の作戦を具体的に立てることに結びついたので収穫があったということです。

どなたも様々なお店で店員に食って掛かっている迷惑な客を見たことがあると思います。

クレーマーやモンスターですね。

今朝の私のことでも、人によっては自分が悪いのを棚に上げて無理な要求を続けたり、文句を言い散らしたりするのではありませんか。

私は店員のミスであっても文句を言うのを好みません。

ましてや、自分の失敗ならば文句を言うなど本末転倒ではありませんか。

私は小さい時から失敗することを大切に思って来ました。

そのように育ったからです。

ご存知かも知れませんが、昔の白黒テレビは脚がありました。

テレビの上に金魚鉢を置くという今ならば考えられない有り様が当時はふつうでしたね。

そして、その白黒テレビでさえもとんでもない高額だったのです。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でも近所の人たちがテレビのある家に集まる場面がありましたね。

あれはどこにである普通の光景だったのです。

私も隣家でテレビを見せてもらっていました。

それをかわいそうとでも思ったのか、祖父は白黒テレビを買いましたよ。

様々な情報が飛び込んで来る魔法の箱に私は毎日釘付け。

そして、数年後に私は事件を起こします。

イヤホンジャック。

今は円形です。

なぜか当時は四角形だったのです。

そこに専用のイヤホンをつなげば音が聞こえてきます。

幼い私は不思議に思って、中がどうなっているのか知りたくて先ずはつついてみようと思いました。

そして、無知とは恐ろしいもので、たまたまそばにあった工具箱の中から取り出したキリでつついてみたのです。

何が起こったかは分かりますね。

ショートしてテレビは壊れました。

正確には壊したのです。

それを近くで祖父はずーっと見ていました。

怒られたか?

いいえ、全く。

祖父が取った行動は意外なものでした。

出たばかりの、給料の何ヶ月分もするカラーテレビに買い替えたのです。

興味を持って何かをしてみて、それが犯罪でない限り、何をどう失敗しても怒らない祖父でした。

では、どうして祖父は怒りもしなかったのでしょうか。

それは祖父の頭にエジソンがあったからです。

エジソンは小学校中退ですが、私の祖父も小学校中退。

無学歴です。

明治生まれですから、小学校中退で働きに出ました。
 
ですが、無学歴ではあっても頭の良い人でした。

「エジソンは世界一の発明王だけれど、その基になっているのは世界一の失敗王」

祖父の言葉です。

失敗は失敗で終わらないのです。

冒頭に書いた生徒の言葉。

「私が間違えてもどうして先生は怒らないの?」

純粋に理解したくて塾に来ている生徒を勉強内容に関して叱ったら、それが原因で勉強嫌いになってしまいますよ。

勉強嫌いの生徒は、その多くを指導する者が作り出していると私は考えます。

以前の英語教育は中1からでした。

小6の生徒たちは中学生になったら英語が学べるとワクワクしていたはずです。

初めから英語が嫌いな生徒なんていませんよ。

ところが、中3になると嫌いな教科の1位は常に英語と数学が争うまでに生徒の気持ちを変えてしまうのです。

誰が?

指導する者が犯人です。

指導する者の人間性・姿勢・低学力が生徒を英語嫌いにしてしまう実態があります。

なぜ間違えたらいけないのでしょうか。

換言すれば、なぜ失敗したらいけないのでしょうか。

間違えること、失敗すること、それが悪であるかのような風潮が世の中に蔓延していませんか。

テレビの悪影響はもちろん大きいですよ。

いじめも多様化した現在、相手を論破することで徹底的にいためつける「遊び」が小学校に定着していることを伝える報道を見たのはいつのことだったでしょう。

弁の立つ者が自分が正しいことを前提に相手をやりこめる遊びなのでしょう。

しかし、これはいじめですよ。

文系的いじめ。

我々理系は自分が正しいと思うなんて絶対にしてはいけないことです。

メディアに登場する論破野郎たちはみんな文系ではありませんか。

理系では自分が正しいなんて思ったら人の命を奪ってしまうことがあるのです。

もしも理系の人間が自らを正しいと思い込んだら、誰かを死なせてしまいます。

数年前に遡ります。

ある国立大学医学部の附属病院で患者の連続死がありました。

一人の医師が全て殺したとしか言い様がない、本当に恐ろしい事件でした。

医学部の閉鎖的構造はドラマや映画ではよく描かれますが、私が医学部に入学した数十年前は見事に「白い巨塔」の世界でした。

ところが、悲しいことに今でも変わることがないエライ先生方が牛耳る世界なのです。

ドラマや映画では執刀医が自分の術式に自信過剰で、それが間違っていること、他にもっと良い術式があること、それを進言する他の者との対立が描かれます。

残念なことに、医療現場では今もそれが続いている恐ろしい現実をあの事件は明確に物語っています。

理系の絶対条件は「固い信念、柔らかい頭脳」です。

文系と違って、理系の作業の多くはチームプレーです。

他人の指摘を受け入れる柔らかい姿勢がないと、患者を死に至らしめるのです。

自分の考えていることが絶対に正しいなんて間違っても思ってはいけません。

逆に、自分はどこか間違っているに違いないという姿勢があれば、大きな失敗を避けられるのです。

医療に関連した恐ろしい出来事としては、昭和30年代には世界中で薬害がありました。

ある新薬によって主要な先進国で悲しい事件が続いたのです。

もしも製薬会社の中に「これは絶対に間違っている!」と言える人がいれば、そのように言える環境があれば、あの事件は防げたかも知れません。

利益優先で自分たちが開発したものに間違いがないと思い込むから、多くの被害者を産んでしまったのではありませんか。

怖いのは過信や妄信ですよ。

かつてあるプロ野球選手が「自信が確信に変わった」という言葉を発し、メディアはそれをまるで名言であるかのように報じました。

ですが、それは後に確信から過信へと変わって行きます。

素晴らしい投手でしたが、名球会の基準である200勝に届くことのない成績で選手生活が終わってしまった事実は、彼の過信がもたらした悲劇と言えないでしょうか。

人間は誰でも間違えるのです。

間違えたら学習すれば良いだけのことです。

しかし、ほめて伸ばすなんて言語道断。

なぜ間違ったのか考えるのが学習です。

間違えることによって初めて考えるきっかけが生まれる訳です。

そのきっかけによって人間は進歩します。

堂々と間違えて気づくことこそ最も大切であると思いませんか。

間違えたら叱る指導では生徒は萎縮してしまいます。

ウソ丸などの不正行為を身につけてしまいます。

それが繰り返されて骨の髄まで染み込んだら、将来は犯罪者になるしかありません。

伸びる生徒は授業中に元気よく「あっ!」とはっきりと声にします。

気づいた瞬間ですね。

気づいて理解できると勉強は楽しいのです。

くれぐれも間違えたら叱るのでは、指導者自身が無能であることをさらしているようなものではありませんか。

生徒がやってみてもしも間違えたら、指導する者はその内容を生徒がきちんと理解できるように、これ以上ないというくらいに易しく説明できるように、その能力を常に磨き続けなければなりません。