この支援員という仕事を始めた当初
一番心配だったことは

子ども達とコミュニケーションがとれるだろうか?

ということでした。

視線が合わない子
じっとしていられない子
呼びかけても返事をしない子
吃音のある子
言語障害のある子 etcetc

まぁ、いろんなタイプの子がいるのですが

当初の心配は杞憂に終わりました顔

視線が合わないのなら
その子の目の前にしゃがんで
正面から話せばいいし

じっとしてられない子とは
一緒に遊んで楽しい時間を共有すればいい

返事がなければしつこく聞けばいいし w

聞き取りにくい言葉も
慣れれば何て言ってるか
分かるようになるんだよね。

そう。

慣れ なんだと思った。

以前なら
電車の中でぶつぶつ言ってる人を見ると
怖いな ってちょっと思ってたけど
今 全然平気でいられるのは

そういう人たちがいるって知ったことと
そういう人たちが怖い人じゃないって知ったからだね。

習うより慣れろ だな。

そういう意味では
最近の交流教育(障害のある子もない子も一緒に学習したりして交流を持つ)も
意味があると思う。

ただ
放りっぱなしのフォローなしでは
意味がないどころか むしろ かもしれない。

通常学級の子ども達の交流後の感想文を見せてもらうと

「かわいそう」

って言葉がよく見られます。

うんうん。

自分たちとは少し違う子ども達を見て
「なんかかわいそう…」って思うことから始まるのは
それはそれでありだと思う。

そう思っちゃうんだもん、しょうがないよね。

大切なのはその次の段階。

障害を持ってることは

「不便だけど不幸ではない」

ということを知る。

「かわいそう」が実は
自分たちを基準とした
上から目線のことばであることを知る。

障害があるかないかは関係ないよね。

要は 楽しく生きてるか生きてないか

だと私は思うのだ。

楽しかったら幸せだものね音譜




形だけの交流には意味がないよ。

丁寧に丁寧にひとつひとつ
落とし込むように体験したことは

きっとその子を次のステージに立たせてくれると思う。




人間 誰にでも得手不得手があって
みんなが支え合って生きているんだよね。

障害という概念のない社会が来るといいな。

そう思っています。