この日本で良く使われる表現として、「私だったら」と言う物がありますが、はたしてその表現は適切でしょうか?そして、その表現は本当に必要な表現でしょうか?今回はそこに焦点を当て見て行きたいと思います。

 先ず、人間生きていれば所謂「悲しみ」や「怒り」の感情を抱く訳ですが、その際の同情表現としてタイトルの様な「私だったら」と言う表現を用いてしまいますね。しかしながら、その表現は本当に適切且つ必要な表現でしょうか?結論からすればそれは、実に不適切且つ、不要な表現と言えましょう。何故ならその表現を用いた瞬間からそこに発生している問題は、その当事者ではなくその「私だったら」と言う表現を用いた側、つまりその何某か問題を感じている人間から、解離した状態になると言う事が言えないでしょうか?何故なら人はそのいくら頑張っても、いくら努力してもその当事者と同じ人生を歩む事は不可能ですし、その人生を代わりに生きる事は不可能故です。

 では、私達は同情表現として、どの様な表現をして行くのが適切且つ、必要とされる表現なのでしょうか?それは、「私には貴方様の抱えておられる問題が真の意味では理解できない事をお詫びします。お辛い事と思います。どうかご自愛ください。」と謙遜な表現を持ち、相手の苦しみを尊重し、その苦難に寄り添う事。これが大切なのではないでしょうか?そうです。誰もがその人と同じ人生を歩む事はおおよそ不可能です。であるならば尚の事その当事者が抱える問題と言う物の神髄までは理解出来ない訳です。

 故に私達は、往々にして逆の意味で「私だったら」を用いてしまい、当事者を励ますどころか、逆に追い込むのです。

 私達は人の苦しみ等に寄り添おうとする場合、細心の留意が必要になってきます。その理由は先にも述べた通り誰もその苦難の深い所での理解は不可能だからです。

 故に私達は、今後はこの「私だったら」を用いる事をお辞めになったら如何でしょうか?そうです。肝心なのは、その人の気持ちにはその表現により、寄り添っている様で実の所より添えていない。この事実にいち早く気付くべきなのです。

 それが原因で、大切な友人関係を亡失する。なんて事も場合によっては発生してくるのです。

 私達は、数ある同情表現の中でも「私だったら」と言う表現は先ず避けるべきでしょう。その人はあくまでその人であり、自分ではないからです。

 如何でしょうか?ここまで「私だったら」と言う表現の不適切さについて見て来ましたが、ご納得は行ったでしょうか?

 それともまだ、「私だったら」と言う表現が用いたいでしょうか?それにより、結果は大きく異なります。

 故に私達は、言葉の取捨選択には細心の留意を必要とする訳です。何故なら人はその表現如何により、或る時はより深く傷心し、或る時は励まされるからです。

 これ以後私達は「私だったら」を本当の意味で吟味して、その表現を忘却の彼方に置かれては如何でしょうか?その言葉で人を傷つけ、多くの人が悲しみの淵に追いやられています。故に、以後はこの表現に気をつけましょう。それを考えるだけでも、その人は大人への階段を一歩帆を進め、成長して行き、「輝く」のではないでしょうか?であるならば、今後私達は、いち早く「私だったら」を忘却しましょう。その同情表現は繰り返しますが、不適切且つ、無理解です。

 これに気付く貴方は、いつか周囲の人を言葉で幸せに出来る人間へと「輝き」を以て成長して行く事でしょう。

 今一度考えてください。「私だったら」は本当に必要且つ適切な表現でしょうか?ご自身の胸に手を当てて良く熟慮されては如何でしょうか?

 「私だったら」は本当に必要でしょうか?