【要注意‼】弥助はヒーローでもラストサムライでもない‼ただの黒人奴隷だ‼ | トランシルヴァニア カルパチア山脈 ドラキュラ城の黄昏

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皆さんは「弥助(ヤスケ)」をご存じだろうか?
 
弥助とは、日本初の黒人の侍であり、戦国時代に実在した織田信長の黒人家来である。
 
弥助の正確な生没年は不詳であり、わかっているのは、彼が戦国時代の日本に渡来した黒人であり、来日した宣教師の奴隷であった、ということだけだ。
 
宣教師から織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、家臣に召し抱えられた。
 
 弥助の詳細な出自は不明だが、弥助について、フランソワ・ソリエという人物が記録を残している。
 
その記録とは、1627年に記した『日本教会史』という書物であり、第一巻に弥助に関する記述があるのだ。
 
それによると弥助は、イエズス会のイタリア人巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた召使で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であるらしい。
 
ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した後、インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してインドに渡っていたのかは不明である。
 
1581年3月27日、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた。
 
『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている。
 
1581年4月14日付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩騒ぎや、投石が起き、重傷者が出るほどであった。
 
初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという。
 
本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたのだった。
 
信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという。
 
『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本には、黒人の弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述があるそうだ。
 
1582年5月11日付の記述には「上様御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云」(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈された黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)とその容貌が記述されている。
 
これは弥助も従軍していた甲州征伐からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものであるが、日記の記述に弥助は下人や年季奉公人のような隷民ではなく扶持もちの士分であったとはっきり書かれている。
 
1582年6月21日の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。
 
『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という。
 
家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレの聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られることになって、一命を取り留めた。
 
現代から見れば、この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられなくもないが、史実を現代人の感覚で裁くことほど愚かなことはない。
 
これは、光秀が、弥助を殺すことを忍びないと思い、逃がすための方便であろうと考えられる。だが、本能寺の変当日、二条新御所で黒人の目撃談がないことから、弥助の供述の信憑性を疑問視する意見もある。
 
その後の弥助の消息については、史料に現れないために全く分かっていない。
 
フロイスの『日本史』の沖田畷の戦いの記述の中にも大砲を使って活躍した有馬方の黒人が出て来るが、それが弥助かどうかはわからない。
 
しかし、「世界ふしぎ発見」というTV番組では、沖田畷の戦いに参戦していたこの黒人こそ弥助であり、主人を失った弥助が面識のあった有馬家を頼ってここまでやって来た可能性があるのではないかと解釈していた。
 
ヴァリニャーノは確かに信長の前に有馬晴信にも謁見しており関係はあったものの、この時代に日本へやってきた黒人は実は結構いたと考えられていて、『南蛮屏風』にも複数の黒人が描かれていることからも、日本に渡来した黒人の中の、どの黒人が弥助であったのを特定することは不可能であり、その番組の解釈は何の根拠もない仮説に過ぎないと思われる。
 
同じく同番組では、弥助のルーツを探しに16世紀に「モザンビーク」と呼ばれていたモザンビーク島にまで取材に行っていて、現地のマクア人の男性には「ヤスフェ」という名前が比較的多いことから、弥助はもともと「ヤスフェ」という名前であり、日本ではそれが訛って「弥助」と名付けられたのではないかとする仮説も紹介していた。
 
また、マクア人の間では、日本の着物によく似た「キマウ」と呼ばれる衣装を着て踊る祭りが昔から伝わっており、弥助は最終的に故郷に戻って日本の文化を伝えたのではないかとも番組では語られたが、これらを具体的に証明する証拠は全くない。
 
愛知県瀬戸市定光寺町の西山自然歴史博物館には、信長のデスマスクが展示されている。信長であるという確証はないのだが、織田秀信の庶子を称したという織田秀朝(西山清明)の子孫だと主張する館長によれば、弥助という黒人の家臣が持ち出した信長の首から作られたというが、それも怪しい話だ。
 
今年の夏頃から、仏ルモンド紙など欧州メディアが相次いで「黒人のサムライ」を記事に取り上げた。
 
というのも、2017年、弥助の伝記実写映画がハリウッドで企画されたことで、世界各地で注目を集めたのだ。
 
海外における弥助ブームは、彼を描いた日本の漫画などを通して数年前から始まっていた。例えば、2007年に漫画『アフロサムライ』(岡崎能士著)がアニメ化されると、アメリカでは先行放送され、声優を務めたサミュエル・L・ジャクソン主演で実写映画化も持ち上がっている。
 
徳川家康に仕えた三浦按針ことウィリアム・アダムスが主人公のゲーム『仁王』(2017年)でも、「ヤスケ」が欧米での認知度を押し上げた。
 
私はこのような状態を危惧している。黒人の中には、かつて日本に黒人の侍がいたという事実に熱狂し、自らを弥助の子孫だと名乗ったり、日本史を作ったのは黒人だなどと、見当外れのことを豪語する馬鹿もいるからだ。
 
そんな嘘つきの黒人とリベラルが一緒になって、「昔の日本はこんなにグローバルだったんだから、今の日本ももっともっと黒人の移民を受け入れて、多人種国家になろう」「日本なら黒人も受け入れてくれるので、どんどん日本に行こう❗」などと、弥助ブームがプロパガンダに利用されてしまうことにもなりかねない。
 
これは恐ろしいことだ。
 
真実は、たまたま日本にやって来た南蛮人のバテレンが黒人奴隷を連れていた。珍しい物好きだった信長公は、珍獣だと思い、好奇心から「飼い主」になってあげたが、本能寺の変で亡くなってしまい、「飼い主」を失った弥助は野良黒人となり、のたれ死んだ。それだけの話ではないか?
 
私は弥助には子孫もいないと思う。当時の日本人から見たら、黒人なんか化け物だ。そんなもんの嫁になりたい人など一人もいなかっただろう。
 
弥助にレイプされて妊娠した人はいたかも知れないが、化け物の子供など、生まれた時点で殺していただろう。
 
弥助の話は、ヒーロー物語でもなければ、ロマンでもなければ、熱狂するような話でもない。単に、たまたま戦国時代に黒人奴隷が日本に来た。それだけの話だ。
 
性欲だけのケダモノであり、チンパンジー並の知能しかない黒人に、あらゆる人間の思想、生き方の中で最も尊い武士道が理解出来るはずもなければ、弥助が真の侍だったなどと言えるはずもない。
 
信長公の珍しいペットだっただけである。
 
私はこの話の映画化自体、プロパガンダに利用されるのでやめてもらいたい。しかも、日本史を映画化するなら、変な黒人を主役にしないでほしい。私が黒人俳優で唯一好きな人はデンゼル・ワシントンだけだから、どうしても映画化するなら、弥助役はデンゼル・ワシントンにして欲しい。が、知的でクールなデンゼルに、猿と変わらないアフリカ人奴隷の役をオファーすること自体失礼だろう。よって、この話はなしでお願いしたい。