この言葉の主、後藤新平は1857年岩手県水沢市に生まれ、
医学校を卒業したのち、内務省衛生局長に就任。
日清戦争後の帰還兵の大量検疫の仕切り振りを児玉源平に買われて
台湾総督府民政局長、南満州鉄道総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、
拓殖大学学長、東京市長、帝都復興院総裁、東京放送局総裁、
など現代日本の礎を作った一人で、もっと注目されて良い人物だと思います。

できたばかりの明治政府は藩閥の意識が強く、佐幕派だった水沢藩出身の彼は
実力で周りを認めさせるしかありませんでした。
彼の方法としては徳富蘇峰から
「まるでカバンのように、調査を身に纏って歩く。」
と評されるように、医学者出身らしい科学的思考にもとづいた実行力と、
尋常ではない人材へのこだわりがあります。

例えば台湾統治時代、給与の等級で四級扱いだったポストを一級扱いにし、
新渡戸稲造(五千円札で有名ですね。)を採用し、
新渡戸とその後輩の札幌農学校出身の俊英たちが台湾に集まり、
土木や農業分野、都市建設で活躍し、
当時の台湾は東京より進んでいるといわれるほどでした。

官僚として優秀な人材を育て、結果も残した後藤ですが、
一個の人間としても凛とした印象を感じるエピソードを残しています。

●1923年内閣に入閣するに当たって外務大臣を希望していたが、
関東大震災がおきたのを受け、内務大臣兼帝都復興院総裁に就任。
震災後の復興の中心として活躍。

●読売新聞の再建の任を受けた正力松太郎は後藤に数十万円
(現在の価値で数億円)の借金を要請しますが、
「新聞経営は難しいだろうから、返さなくとも良い。」と了承します。
しかし、後藤の死後、その資金は自宅を担保に無理な借金をして用
立ててたものであったことがわかり、
正力松太郎はそれを聞いて号泣したといわれてます。

カッコ良すぎます。
時代は違いますが、私も後藤新平の千分の一、いや、一万分の一でも
カッコいい大人になれるよう、明日から頑張ります。