小境城1(長野県飯山市豊田城山) | えいきの修学旅行(令和編)

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 私のブログによって何方かの小境城への訪問が誘発されるのであれば、私には危険を警告しておく義務があるであろう。
 よって、冒頭に記しておく。
 この城は、藪、傾斜きつく、踏査は困難を極め、危険である。それなりの覚悟と装備、天候・季節・クーさん状況をリサーチのうえ、危険を感じたら撤退する意思をもって臨んでください。
    
小境城 
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 小境城は、鷹落山(標高879.4m)の南東下標高595mに主郭1を備え、主郭東下標高500m付近に御屋敷と称する居住域を置く。
 鷹落山の北西は越後国境平丸峠である。
 飯山と越後頸城郡を繋ぐ道は富倉峠、北峠、平丸峠、関田峠など幾筋かあり、その幾筋もの道を掌握することも目的とし、山口城・山口小城、中曽根城、中条城、小境城、上境城などの諸城が信濃側山沿いに連なるように構築されている。
 謙信期には、謙信領国の絶対国防圏であり、武田勢の越後侵入を阻止するため、死守すべき境目の城である。
 また、謙信死後の景勝ー勝頼による甲越同盟締結後は、勝頼領有下となり、父信玄以来の悲願であった信濃全域領有を果たした勝頼の意を受けて改修された可能性もある。
 
 私は今、そのはざまで苦悩(喜悦か)している。
 
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やや斜(上写真撮影地より2kmほど南東)から鳥瞰
 掘、郭名は宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版(以下宮坂図)に準拠し、以下、呼称・実測値は同書に拠る。
 
 山上郭1・2の選地は頂部ではなく、尾根のたるみであり、後背をケ~オの五重堀切で厳重に遮断している。この五重堀切は、一部収斂を見せ、西に竪堀として長大に降る。両側のケ・オは下部で竪堀コに接続し、コ下端から後背に登りつめることができ、搦手道であったと考える。西下には堀コに加え、サ、シが守る。
 御屋敷には、権現清水から堀ウに向かい、郭3南下から堀イ脇の虎口から入ったであろう。御屋敷と山上郭1・2の接続は、宮坂先生は、郭3から南東尾根を登ったと推定しているが、現況では南東尾根接続はかなり厳しい。私は、南尾根伝いに二度昇り、一度降り、竪堀伝いに一度登り詰め、二度降りている。
 
 宮坂先生は「中世後期には尾崎氏分家西堀氏が在住したようである」とし、『長野県町村誌』では、城主を外様十人衆の西堀刑部少輔重次、慶長三年上杉氏の会津移封に従ったとしている。
 会津御在城分限帳に、御馬廻衆百五拾石・西堀七左衛門の名がある。
 
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竪堀コ
 西側(右)に土塁が沿い、中腹西(左)面を守る。山上郭1後背に登り詰めることができ、搦手の通路でもあった。
 
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竪堀となって降る堀オ
 
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上方は主郭後背を鋭く断つ
 
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掘オ~キの三重部
あくまで五重のうちの三重である。
 
 小境城は小城であるが、命懸けといっても過言ではない調査の成果、遺構を明瞭に撮影することができた。そして、一帯の山口城、山口小城、中条城とともに後背・越後側に設けられた多重堀切が、謙信期上杉領国圏の絶対防衛構造なのか、あるいは御館の乱後の勝頼期武田による信濃全域領有確定の意志を示すものなのか、私のテーマ「天正期上杉の城郭普請構造の進化過程」におい極めて重要な年代比定事項でもあり、以下の1~4の四部構成にて、じっくりと公開することとする。
 
 1では、概要と、権現清水を起点に、中腹部の御屋敷区画。
 2では、中腹部西下の堀コ・サ周辺、そしてA段から竪堀コ、山上から降り下る多重竪堀を登り詰める。
 3では、南尾根伝いに山上の郭2、1へ登り、主要部郭1・2へ。
 4は、主郭後背の五重堀切の様相。
 
 遺構の明瞭な写真を適宜使用するため、11、12、4月撮影の写真が混在する。季節の差による見苦しい点は容赦されたい。
     
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参考資料 小境城見取図(らんまる攻城戦記より引用 堀名と郭番号は宮坂図に同じ 以下らんまる図)
 

 
権現清水を起点に、中腹部の御屋敷区画
 
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権現清水
弥勒寺西の林道を登9分で至る。
弥勒寺はここhttps://yahoo.jp/j4b6Mj
上方に堀コ、サ、シ。
右方(北東)直線距離約180mで御屋敷虎口。
 
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権現清水東
耕作地として使用されたようだ。
 
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しかし、上方は耕作地であろうか
私には屋敷地に思える。
 
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居住区域を区画したような通路
右に石による造作がある。
 
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石塁状の構造もある
 高度な石積技術というわけではないが、御屋敷と伝わる郭3虎口周辺にも石による造作があり、私は、御屋敷居住と近い時期、近い主体(侍)による構築と考えたい。
 
 いちいち拾っていては、記事が山上になど辿り着けない。
 
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南東尾根ー郭3との鞍部 堀ウ
堀ウは郭3に虎口から入って再掲する。
郭3南下を東(右方)に回り、虎口へ。
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らんまる図より該当区域を切取り
 
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御屋敷虎口
桝形で受け、郭3側には石塁(一部土塁)を用い、頑強に造作している。
 
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郭3開口部
 
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少し引いて、石塁で挟まれた郭3出入口構造
しかし、開口前に対する工夫は、進んだ構造ではない。
 
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開口部東
 
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郭3-堀イ間の土塁(石塁)
この上を堡塁(櫓台)状にし、側面から虎口前を押さえていれば、強固な虎口となるのだが。
 
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開口部北西
郭3南西端は、堀ウ側から虎口への導線に沿って石塁としている。
 
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御屋敷 郭3
 
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郭3北西端下、南東尾根鞍部堀切ウ
 

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掘ウ底
箱状か。
 
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ウ底から南東尾根を見上げる
 宮坂先生は、御屋敷と山上郭1・2の接続を、この南東尾根を登ったと推定しているが、現況では、検討する意思をも撃ち砕く状況である。
 
先掲の虎口から堀イの南東、郭4・5へ向かいます。
 
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郭3南東部
 
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虎口を郭3内から
 
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郭4へは、掘イ西端から上がったか
 
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あるいは掘イ底を通路とし、東端からあがったか
 
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掘イ東端から郭4、5
 
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郭5の東西には郭4と同じ高さの帯郭が付随する
 
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小高く郭5
古墳?
 
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郭5上
御屋敷に付随する物見郭であろう。
 
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黒岩城との通信、南尾根筋の監視も役割であったか
 
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南東一段低く郭5´
 
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南東下に堀ア
 
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堀ア
 
小境城1は、ここまでとします。
 

小境城1雑感

 
郭5からは黒岩城だけでなく、小境城の南尾根もよく見える
 
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私は、あの南尾根を二度(11月と12月)登り、一度(12月)降りた
 
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 あそこを昇り降りする生物を目の当りにしたら、私は、さぞ驚いたであろう。ましてやそれが人間であったら、どれほど驚くであろうか。
 数十分前、あそこを昇り降りした自分を想い、この時初めて「もしかして、俺はイカレているかもしれない」と思った。
 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
       矢田俊文・福原圭一・片桐昭彦編(2005)『上杉分限帳-越後・会津・米沢ー』、新潟大学「大域的文化システムの再構築に関する資料学的研究」
 
参考サイト らんまる攻城戦記 http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-791.html