栃尾城全景
古志長尾の武装鎮台として威容を誇り、長尾景虎(後の上杉謙信)を迎えた。
長尾景虎が守護代として春日山城に入ると、古志長尾の被官で栃尾城将であったと思われる本庄実乃は、景虎の奉行人として春日山に出府し、栃尾衆は謙信旗本として勇猛を誇ったことであろう。
謙信が永禄十一年八月十七日に武田信玄の信濃出兵に備え信越国境の陣容を記した書状に、手前ニ者、山吉、河田、栃尾衆、とあり、信頼する旗本の直属兵として記されている。
現地諏訪神社にある城跡図。山上の巣城と、中城に分けてブログ作成します。
その1として黄線内の本丸下まで、赤丸内の中城と思われる郭を辿ります。
現地、案内解説版では、山上を要害、赤丸部を中城という解釈はしていません。
大家健著、図説中世の越後を参考に、私のブログ用に現地城跡図の呼称と私の私見を書き込んであります。現地城跡図の呼称・解説と大家氏の呼称・解説、は一致しません。私の私見も現地解説とは異なります。城跡図の呼称を用い、大家氏の解釈を参考に私の妄想でご紹介します。
大手と思われる諏訪神社から入り→金井郭→井戸→搦手と思われる表町口→政庁と思われる馬場→大濠切→城主居館と思われる千人溜→本丸崖下と進みます。
諏訪神社登り口
場所はここhttp://yj.pn/SsMv5t
諏訪神社境内
本殿横に城跡案内図があります。
諏訪神社の裏に登山道があり、登っていくと金井郭にでます。金井氏が守った郭でしょうか。永禄3年(1560)5月9日に栃尾城将本庄玖介、宇野左馬介に対して、軍役普請などについて血判宣誓した栃尾衆七人のなかに、金井修理亮の名があります。
本庄玖介、宇野左馬介は本庄実乃が守護代となって春日山に入った景虎に従った後、栃尾城将となった本庄実乃の被官と思われます。金井氏などの栃尾衆とは同心衆で、主従関係ではありません。
馬場へ向かう道脇に井戸の跡がある。
縄張り図では二つの井戸が記されているが、一つしかわかりませんでした。
井戸付近で左に折れ、馬場跡とされる郭の北東辺を進み、
台地東角で右に折れると城内へ。
左からは搦手と思われる表町口からの道が合流する。
搦手方向、左に降りていきます。
後藤郭の端に出ます。大家氏は古藤と記しています。
後藤、古藤氏については、私の資料では今のところ出会わせていません。
後藤郭したにも数段の郭があります。
縄張り図では奥に井戸が記されていて、進むと、
見事な井戸がありました。
堀られているだけでなく、土塁で守られているように見えます。
石動神社
表町口の登り口崖上には石動神社があります。
ここから五折れで登る侵入者を見張り、追い落としたのでしょう。
崖を、五折れで登り口の大明神と繋がる。
表町口は大明神が守っています。
先ほどの分岐に戻り、馬場へ。
大濠切の前付近の馬場跡。
馬責め場とも呼ばれるこの平地は、その者の示すとおり軍馬の訓練が行われたところです。広さは2.900㎡あり、一隅には池の跡があります。と、現地説明版に書いてあります。 たしかに馬の訓練はしたかもしれませんが、古志長尾の政庁があったのではないでしょうか。なんとなくここまでの雰囲気が春日山城御屋敷郭(上杉謙信の政庁)に似ている感じがします。
馬場の南は大濠切が走ります。
この大濠切の上が、千人溜りです。
千人溜りには、城主の居館があったのではないでしょうか。
春日山城老母屋敷(春日山神社のある郭)のような。
千人溜り
草で郭の様子がいまいち伝わりません。
千人溜り南東は谷が入り込む急崖。
3月に城外東から撮った写真です。
南面大濠切端の入口以外、侵入される心配のない安全な郭です
古志長尾を継ぎ、武名を高めた長尾景虎の居館に相応しいと思いませんか。
千人溜りの奥は三段の郭が続く。武器や兵糧などの蔵でもあったのか。
そこを抜けると本丸が立ちはだかる。
山上本丸下の崖下道へ続く。
栃尾市史のなかに、御館の乱後、敵対した古志長尾の栃尾城を、景勝が攻め落城させた際の経過が記されています。
天正八年四月十四日 上杉景勝栃尾へ侵攻。十五日 栃尾城へ攻撃開始。二十二日 大野城下で市街戦、根小屋地区焼亡し巣城を残すのみ。 城主本庄清七郎会津へ落去。数日後 栃尾城陥落。「早天、根小屋へ押し寄せ放火せしめ、巣城ばかり成置候」「宿城相破り、中城迄放火」
古志長尾の中で紹介した館があったった大野地区で戦闘があったこと。根小屋、巣城、中城と呼ばれる区域があったことがわかります。
根小屋が大野地区、このブログ記事で紹介した諏訪神社から馬場、千人溜りが中城、山上の本丸を中心とした南北に伸びる尾根が巣城ではないでしょうか。
その2 山上要害部へ続きます。