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何にフォーカスするか。
それが、その人の次なる現実を決めるんじゃないかな。
人間、2人いればいさかいが起きると申します。
気に入らないことにフォーカスすること。
気に入らない相手だから何の配慮もいらない、
という思い上がり。
現実に繋がりがあった相手とすら、決裂を招くそれを、
赤の他人に行う意味とは?
日常の鬱憤を他者にぶつける、八つ当たり。
関係のある相手なら、やられた方もモヤっとはするが、
なんとか理解はできる。
理解の先に、許しがあるかないか、戦うか撤退か。
それはお互い様の二者関係だから、まぁいいさ。
あずかり知らぬ赤の他人に、匿名でやられた時、
モヤっとした心の持って行き場がありゃしない。
誰なのかわからないのに、
八つ当たりの裏にある内情もわからないのに、
反論すらもできないよ。
それをバカな他人の言うこととスルーするには、
あまりの量と内容に、
若い心は殺されてしまった。
素直でまっすぐな若者ならば、
バカの言う言葉に素直にフォーカスしてしまうだろう。
周りの大人は、気づいてあげられなかったのか?
気づいてるはずなのにさらに煽る動画を上げ続け、
面白おかしくコメントした大人たちはなんなのか?
テラハは見てなかったけど…木村花さんの悲劇に
思うこと。
正直に、まっすぐに生きる若者に、
向けられた非情なフォーカス。
そこにまっすぐフォーカスして、
本気で受け止めてしまう危うさ。
何にフォーカスし、どんな現実を引き寄せるか。
それは本当に大事なこと。
赤の他人のプライバシーにフォーカスし、
わかりもしない内心にフォーカスし、
執拗に他者を追い詰めることにフォーカスし…
悲劇の原因にフォーカスされることを恐れ、
アカウントを消して逃げ回る者よ、
無駄だ。
あなたがフォーカスしたものは、
必ずあなたを追いかける。
だから、関係のない第三者までが、
その者たちにフォーカスしてあげる必要も、ない。
然るべき人が、然るべき方法で、
しっかりと犯した間違いの責任を突きつける。
それでいいのだ。
人は誰も完璧なんかじゃない。
人は誰も感情を押し殺したまま生きてはいけない。
そんな生身の生き様を、叩く権利は誰にもない。
なんちゃら事件を今更議論して、死者に鞭打つことはない。
そんなことを思った。
おそらくどっかで買い占められて、
「ある所にはある」マスク。
コロナ騒ぎが始まって以来、店頭でお見かけすることはありません💦
だがしかし。
来週には学校再開予定のここ北海道。
生徒さんたちへのご連絡には「マスクを着用してください」という
かなりな無理難題を付さなければならないわけです。
「ないなら作ってでもしてください」と言わねばならない立場なわけです。
それなのに、我々がマスクをしないという選択もまた、あり得ません。
「ないものはないんだよ!」
という怒りを抱えながら
「ないものはないんだよ!」
というクレームを受けねばならない小市民の悲しみ。
お上はわかっているのでしょうか。
近頃、巷では「隠キャ」とか「陽キャ」とかって分類があるらしいですね。
スクールカースト的には「陽キャ」が上…なんだそうですね。
なんのこっちゃ。
キャラって段階で、そもそも演じてる感しかないもので
上とか下とか、なんなんすか?
キミタチは演劇学校の生徒さんですか?
演じるだけでいいのなら、お好みのものを演じたら良いのではないですか?
ヒトのキャラクターなんてものは、「今」いる場でいかようにも選べる。
そして、日々…どころか時間、あるいは分単位で変わるようなもの。
「陽キャ」というのは、昔でいうとマイルドヤンキー的な
ちょっとだけワルの香りのする明るい面々のことを言うのでしょうか。
んでも、その明るさとやらが、ダークな内面を隠す演技感満載なケースが
多々ありますゆえ、そんなもの真の陽気さとは異なる気がします。
「隠キャ」というのはどっちかというと自認するというより
他者からそう見られるという風情があるワードですが、
言ってる奴らが一面からしかものを見られないおバカさんってだけじゃないですかね。
明るいのがいい、暗いのがダメなんて、一体誰が決めたんでしょうね。
時に必要以上の明るさは、過度な陰気さと同じくらい鬱陶しいものであります。
何事も、ほどほどが良かろう。
そして、「ほどほど」の感覚は十人十色でありましょう。
各人が各人なりの「ほどほど」を演じているのが世の常でありましょう。
かくいう私も、「明るすぎてうざい」「暗くてうざい」という両極端な評価を
他人様からいただいたことがあります。
他人様は、見たいように他人を見る。
そんなもので、自分の価値が決まったなどと思う必要は全くない。
「キャラ」というからには、そんなのは所詮ただの「キャラ」。
演じたければ演じればいいし、面倒だったら自分なりの普通でいたらいい。
要は、ヒトはなりたい自分を演じてただそこにいる。
それだけのこと。
「本当の自分」をわかってほしいという面白いことを言うヒトも時々いるが…
だったら演じるのをやめてもらっていいですか?
とか、思う。
100%演じるのをやめたら、自分自身も相当しんどいと思いますよ?
サトラレ状態ですよ?
生きるって、他者と関わるって、そういうことじゃ、ないのかな。
日々、思うのは
「これも一つの通過点」ということ。
ここを通過した事実はあるけれど、そこからどうなるかなんてわからない。
「ここが分岐点だ」なんて意気込んでみても、
後で考えると結局ぐるっとまわって、その時選ばなかった道に進んでいることも多々。
例えば仕事。
若い頃に一度「不向きだ」と判断して、その時は分岐点と思った別の道を選んだ。
…ハズなのに、10年以上経ってからまた元の仕事に戻った自分がいる。
もちろん、あの頃の自分のままやっていたら「やっぱり不向きだ」で終わってしまうから、
若かりし日の失敗を糧に日々修正…しているつもり。
あるいは、「若い」がゆえにできなかったことや、やっても通用しなかったことが、
今なら自然にできたりもしているかもしれない。
今、授業で小林秀雄氏の「無常ということ」を読んでいる。
おそらく若き生徒諸君にとっては「何言ってんだ?」な話。
私自身も、高校生の時に授業でこれを読んだときは、
正直あまり意味がわからないまま、ただ文章そのものを読み取り
「そんなもんですかねぇ」くらいに思ってた。
けれど、色々経験を積んでから読むと、また味が違う。
常なるものを見失い、無常であるということだけを考えると、
そこにはただの解釈や諦め…いずれにしても何か頭でっかちなものしかない。
けれど、歴史となった過去をただ思う。
それはもう揺るがない常なるもの。
生きている今、揺るがないものなど何もないし、まだまだ未完成。
完成するのは、最期を迎えた後のこと。
無常なる日々に、絶対の正解や完成はない。
無常なる日々を、どう生きるか。
…意外とあるがままにたどり着くような気がする今日この頃。